2013年2月28日木曜日

真実を言わない政府 1 / DEMOCRACY NOW!

真実を言わない政府 1 / DEMOCRACY NOW!



アップロード日: 2011/08/28
福島原発事故  DEMOCRACY NOW! 6月10日米国放送日本語字幕版 1キュリーは370億ベクレル

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真実を言わない政府 2 / DEMOCRACY NOW!
 

Dr.Busby封印された #放射能 の恐怖 #Tokyo #Sesium 130000Bq by #Fukushima

Dr.Busby封印された #放射能 の恐怖 #Tokyo #Sesium 130000Bq by #Fukushima



公開日: 2012/07/27
Chris Busby,封印された放射能の恐怖<日本語訳・字幕↓:Jo2Rayden> Fukushima Radiation Tokyo Air conditioning filter High! *radioactivebsrさん2012/07/25公開 http://youtu.be/AOobTcwzElw*CCクリックで日本語字幕*
昨年、私は、ECRR欧州放射線防護委員会を代表して福島原発事故後に日本に行きまし­た。私は、大量の放射性物質が放出された危険性とその隠ぺいを人々に知ってもらいたか­ったからです。私は講談社から、欧州放射線防護委員会のモデルの見解と、研究室でのテ­ストの結果、私たちが発見したすべてを、日本語の本で出版して貰えないかと依頼されま­した。この本は出版されます。もし、あなたがこれを知りたいならば、本日、7/25に­講談社から出版されます。事故による影響と、皆さんが知りたい政府の犯罪的な責任の隠­ぺいについて本に書いてあります。この本では、入手した汚染範囲のデータを見られます­。私たちは、米国大使館、および米国のエネルギー省から入手したファイルのデータを見­られます。彼らは、汚染の拡散のほんの初期から放射性物質核種を測定していました。彼­らは、東京が汚染されていくのを知っていました。米国大使館の屋上で計測していたから­です。そして、データのすべてを本で見られます。放射性物質核種の汚染が、日本の人々­に与える影響がわかるでしょう。特に東京で暮らしている人々への影響が。なぜなら、東­京で暮らしている人々は、汚染からあまりにもはるか遠くなので、どんな健康への影響も­ないと、メディアによって偽って伝えられていたのです。しかし、欧州放射線防護委員会­ECRRのモデルによれば、癌、心臓病、白血病および一般的な健康障害が起るでしょう­。この本では、さらに、福島原発3号機が[核爆発]だったという証拠が判ります。これ­は様々な大学当局により、米国内で測定されたキセノン放射性物質核種の比率に基づいて­います。隠ぺいの証拠、および核産業を守ろうとする日本政府と国際機関の双方による刑­事責任が判るでしょう。私は健康への影響の隠ぺいについて、福島原発事故以来ずっと警­告しています。また、その時以来、私たちは、放射能放出による危険の大変多くの証拠の­断片を見つけました。皆さんは人々が理由なく突然死したり、心臓発作で人々が死んだり­、心臓発作で子供が死ぬのを見続けているのです。私たちは、今、福島県の子どもの36­パーセントが甲状腺に腫れが検出されたのを最近の調査の結果で知っています。皆さんは­真実を知る必要があります。また、真実を知りたければ、この本を購入すべきでしょう。­これは一片の証拠なのです。しかしながら、何が起こったのか、真実の恐怖なのです。高­層アパートの20階の高さに住む東京中心部(東京タワーの近く)の女性から、ECRR­の研究所へ送られたエアコンのフィルターですが、建物の内部のエアコンのフィルターで­す。つまり、これは建物の外部のものではありません。そして、このフィルターの物質は­、13万Bq/kgのセシウムを示しました。また、さらに、ウラニウム、濃縮ウランの­存在も示しました。そして、今まで言及されていない非常に危険な[鉛210]の放射性­同位体 を検出しました。☞ http://cnic.jp/modules/radioactivity/... したがって、私たちがこのフィルターの中を、どのようにして放射性物質を測定したか示­します。本当の広範囲な放射能汚染について、今、見ることができるでしょう。ご清聴あ­りがとうございます。 -END- 
*データ解説ビデオはこちら Dr.Busby show the data on new video☞ http://youtu.be/s8yDI9h1kxQ
*Chris Busby introduces a new Japanese language book published today in which he presents the truth about the health effects of the Fukushima Catastrophe to the Japanese people. In this book is much new information about the cover-ups including leaked documents showing the the US knew from the very beginning that the radioactivity had reached Tokyo as they were measuring it on their Embassy roof. Also in the book is evidence that the F3 reactor explosion was a nuclear criticality. The video ends with reference to new results of measureements made on an air conditioner filter from an apartment in central Tokyo showing dust inside the apartment on the 20th floor near the Tokyo tower had 130,000Bq/kg of Radioactive Cesium.

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内部被ばくに警鐘〜クリス・バズビー博士_2.mp4Chris Busby



アップロード日: 2011/08/05
日本政府などが様々な基準に採用しているICRP(国際放射線防護委員会)と一線を画­し、内部被ばくや低量被ばくについて長年、研究を重ねて来た欧州放射線リスク委員会(­ECRR)の科学委員長クリス・ズビー博士。日本の汚染はどのような状況にあるのか。

Holding a clear line against ICRP model which Japanese government and other authorities adapt as various basic standards, Prof Busby, Scientific secretary of ECRR indicates serious significance of internal exposure and low level radiation based on his long years research. He discusses the current situation of Japan.

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参考リンク:

欧州放射線リスク委員会

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%B7%9A%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%AF%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A

以下抜粋:

欧州放射線リスク委員会(European Committee on Radiation Risk, ECRR )は、ベルギーに本部を置く市民団体である。欧州評議会及び欧州議会国際連合、各国の政府等とは関係を持たない私的団体である。
2011年5月現在、日本国内においては、放射線リスク欧州委員会放射線リスクに関する欧州委員会ヨーロッパ放射線リスク委員会とも訳されている。

概要 [編集]
欧州放射線リスク委員会(ECRR)は、1997年に結成された市民団体である[1] [2]。結成の端緒は、欧州議会内の政党である欧州緑の党が、ベルギーのブリュッセルで開催した会議の決議による。この会議では、欧州評議会1996年5月13日付で定めた基本的安全基準指針である「指令96/29Euratom」について論議した。
湾岸戦争イラク戦争における劣化ウラン弾や、チェルノブイリ原子力発電所事故福島第一原子力発電所事故などに付随する放射性物質の健康問題に関連した活動を行っている。

会員

アリス・スチュワート(en:Alice Stewart)は、ECRRの最初の議長を務めた。科学委員会の議長はインゲ・シュミット=フォイエルハーケ(en:Inge Schmitz-Feuerhake)教授である。また、クリストファー・バズビーが科学セクレタリーを務めている[2]
2010年の勧告の編集委員は、クリス・バスビーロザリー・バーテル(シスター、疫学者、反核平和運動家[3])、インゲ・シュミット-フォイエルハーケ、 モリー・スコット・カトー、 アレクセイ・ヤーブロコフであった[4]

活動

欧州評議会が定めた「指令96/29」は、欧州連合加盟国内における自然放射性物質や人工放射性物質の利用と輸送とに関して幅広く規定するものである[5]。ECRRは、初会合で、同指令の条項4.1.cの目的「……民間利用としての放射性物質の生産と加工……」[2]に焦点を当てた。
欧州議会における審議では、内部被曝による放射線リスク評価に関して、便宜的に国際放射線防護委員会(ICRP)のモデルによる成果を採用すべきであるとされた[5]。しかし、ECRRは、これに異議を唱えて、「ICRPのモデルは放射線リスクを過小評価している」と主張した[6]。ECRRは、特殊な同位体による生物物理学的特性を考慮して、放射線荷重係数を再定義することを提案した[7]

勧告と報告

ECRRは、3つの調査結果を発表している。
  • 2003年のECRR勧告『放射線防護を目的とした低線量の電離放射線被曝のもたらす健康への影響[8][9][10]
  • 『20年後のチェルノブイリ ―チェルノブイリ事故の齎す健康への影響[11][12]
  • 2010年のECRR勧告『低線量の電離放射線被曝のもたらす健康への影響[13]』 - 同勧告においてECRRは、軍用の核兵器開発や核実験による放射能汚染人道に対する罪とみなすべきとした[14]

European Committee on Radiation Risk (欧州放射線リスク委員会公式ウェブサイト)

http://www.euradcom.org/

最終更新 2013年2月19日

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http://www.jca.apc.org/mihama/pamphlet/pamph_ecrr2_smry.htm

http://www.euradcom.org/

ECRR
欧州放射線リスク委員会2003年勧告
放射線防護のための低線量電離放射線被曝の健康影響
実行すべき結論(Executive Summary)
 

 この報告書では、電離放射線被曝がヒトの健康に及ぼす効果に関して本委員会が見いだしているところについて概略を与え、さらに、これらのリスク評価についての新しいモデルを公表する。それは政策決定者やこの分野に関心を持つ人々に向けたものであり、本委員会によって開発されたモデルやそれが依拠した根拠について簡潔な説明を与えることを目的としている。このモデルの開発は、現在法的に制定されている放射線リスクの全ての基礎とされ、かつ支配している国際放射線防護委員会(ICRP)の現在のリスクモデルを分析することからはじまる。本委員会は、このICRP モデルについて、それを体内に取り入れた放射性同位元素による被曝に適用するについては、基本的に欠陥を持つものであると見なしているが、歴史的に存在している被曝データを処理するという実際的な理由のために、内部被曝に対して同位体と放射線毎に特別な荷重係数を定義することによって、そのICRP モデルにある誤差を修正することに合意した。したがって、実効線量の計算は存続する。

1. 欧州放射線リスク委員会は、ICRP のリスクモデルを批判するために設立されが、それは1998 年2 月に開催された欧州議会内のSTOA ワークショップと明確に同一のものである;その後、それは低レベル放射線の健康影響に関して別の見方を探すべきだとの認識で一致した。本委員会は、欧州内の科学者とリスク評価専門家によって構成されているが、その他の国々の科学者や専門家からの事実の提供やアドバイスも受けている。

2. 人類の活動に関わる放射線源に起因して、体内に取り込まれた放射性同位元素によって被曝した集団において、特にガンや白血病といった、疾病のリスクが増加しているという疫学的証拠と、ICRP のリスクモデルとの間には不一致が存在していることをまず確認するところから本書は始まる。本委員会は、そのようなリスクに適用されたICRP のリスクモデルの科学的な考え方にある基礎に取り組み、ICRP のモデルは、受け入れられる科学的道筋を通じて生まれたものではないと結論する。とりわけ、ICRP は急性の外部放射線被曝の結果を、複数の点線源からの慢性的な内部被曝に適用し、これを支持するためには、もっぱら放射線作用の物理的モデルに頼ってきている。しかしながら、これらは結局において平均化してしまうモデルであり、細胞レベルで生じる蓋然的な被曝には適用できない。ある細胞は放射線にヒットされるか、されないかである;最小の衝撃は一回のヒットであり、衝撃は、時間軸に沿って広がっているこの最小のヒットの回数が増えることによって増加する。したがって本委員会は、体内の線源からの放射線リスクを評価するに際しては、内部被曝の疫学的証拠を、機械的理論に基づくモデルよりも優先させなくてはならないと結論した。

3. 本委員会は、ICRP モデルにある暗黙の原則の倫理的な基礎、したがってそれらの法的な基礎を検討する。本委員会は、ICRP の正当化は、時代遅れの哲学的推論、とりわけ功利主義的な平均的費用-便益計算に基づいていると結論する。功利主義は、行為の倫理的な正当化のための根拠としては、それが公平な社会と不公平な社会あるいは条件とを区別する能力を欠いており、すでに長い間退けられている。功利主義は、例えば、計算されるのは全体の便益だけで個々人の便益ではないという理由から、奴隷社会を正当化するためにも使われ得る。本委員会は、ロールズの正義論、あるいは国連の人権宣言にもとづく考え方等の人権に基づく哲学を、行為の結果として公衆の構成員の回避可能な放射線被曝の問題に適用するべきであると提案する。本委員会は、同意のない放射能放出は、それがもたらす最も低い線量であっても、たとえ小さくても有限の致死的な危害の確率を持つので、倫理的に正当化できないと結論する。そのような被曝が許容される事態においては、本委員会は、住民全体に及ぶ危害の総和を評価するために、関係する全ての行為と時間において「集団線量」の計算が採用されるべきであると強調する。

4. 本委員会は、「住民の放射線被曝線量」を正確に決定することは不可能であると考えている。それは放射線の種類、細胞、そして個々人にわたる平均化の問題や、それぞれの被曝は、細胞あるいは分子のレベルにおけるその効果の観点から記述されるべきであるという問題があるからである。しかし、実際上これは不可能なので、本委員会はICRPのリスクモデルを、その実効線量の計算に2つの新しい荷重係数を取り入れることでその適用範囲を拡大したモデルを開発した。それらは生物学的及び生物物理学的な荷重係数であり、それらは体内の複数の点線源に起因する細胞レベルでの電離密度、すなわち時間と空間における区別の問題を記述する。実際のところ、それらはICRP が使っている、異なった線質の放射線(例えば、アルファ線、ベータ線及びガンマ線)がもたらす異なった電離密度を調節するために採用されている放射線荷重係数の拡張である。

5. 本委員会は、放射線被曝源を概観し、自然放射線への被曝との比較によって、新しいタイプの被曝の効果を評価する試みに注意を払うことを勧告する。この新しいタイプの被曝の中には、ストロンチウムSr-90 やプルトニウムPu-239 といった人工同位体による内部被曝だけではなく、ミクロンメートルの範囲の大きさに集まった、完全に人工的な同位体(例えば、プルトニウム)や天然同位体の形態からは変更され(例えば、劣化ウラン)の同位体の集合体(ホット・パーティクル)による被曝も含まれる。そのような比較は、現在のところICRP の概念である「吸収線量」に基づいてなされるが、それは細胞レベルでの危害の結果を正確には評価しない。外部被曝と内部被曝との比較もまた、細胞レベルでは定量的にきわめて異なることがあるので、リスクを過小に評価してしまうという結果をもたらすだろう。

6. 本委員会は、生物学や遺伝学、またガンの研究における最近の発見は、ICRP の細胞内DNA の標的モデルが、リスク分析のよい基礎ではありえないことを示しており、放射線作用についてのそのような物理的モデルを、被曝した人々についての疫学研究よりも優先して取り扱うことはできないと主張する。最近の研究結果は、細胞に与えられる放射線のヒットから臨床的な発病へとつながるメカニズムについては、ほとんどまったく未解明のままであることを示している。本委員会は、被曝に関する疫学的研究の基礎を概観し、被曝に続く損害についての多くの明瞭な証拠の数々が、不適切な放射線作用の物理的モデルに基づいているICRP によっては、考慮の外に置かれてきていることを指摘する。本委員会は、そのような研究を放射線リスクを評価するための基礎として復活させる。したがって、セラフィールドの小児白血病の発生群に見られる、ICRP モデルによる予測値と観察結果との間の100 倍ものひらきは、そのような被曝がもたらす小児白血病のリスクの評価となって表現される。したがって、その係数は、本委員会によって、特殊なタイプの内部被曝による損害を計算するにあたっては、シーベルト単位で子供の「実効線量」を計算するのに使用する荷重係数に取り入れて評価することを通じて組み込まれることになる。

7. 本委員会は、細胞レベルでの放射線作用のモデルについて調査し、ICRP の「線形閾値無し」モデルは、外部照射に対する中程度に高い線量領域のあるエンド・ポイントについてを除いては、被曝線量の増加に対する生体の応答を表現しないと結論する。ヒロシマ原爆被爆者の寿命調査研究からの外挿には、同様な被曝、すなわち急性の高線量被曝についてのリスクのみが反映される。低線量被曝に関して本委員会は、これまでに発表された研究を概観し、放射線線量に対する健康影響は、低い線量ではそれに比例して大きくなるが、これらの被曝の多くが、誘発される細胞修復や(細胞分裂時の)感受性の高い細胞相が存在するために、2相的な線量応答になる可能性があると結論する。そのような線量応答関係は、疫学データの評価を混乱させる可能性がある。本委員会は、疫学研究の結果においては、直線関係が失われていることをもって因果関係を否定する議論は進めるべきではないことを指摘する。

8. 損害の機構についての考察を重ね、本委員会は、ICRP の放射線リスクモデルとその平均化の手法は、空間的にも時間的にも非均一性がもたらす効果を排除してしまうと結論する。すなわちICRP のモデルは、体内のホット・パーティクルによる組織局所への高線量の被曝と、細胞分裂の誘発と中断(2次的事象)をもたらす連続的な細胞への照射とを無視し、これら全ての高いリスクの状態を大きな組織の質量全体にわたって単純に平均してしまうのである。このような理由から、本委員会は、ICRP がリスク計算の基礎として使用している未修正の「吸収線量」には欠陥があり、それを、特殊な被曝の生物学的かつ生物物理学的な様相に基づいて荷重を強調する、修正「吸収線量」に置き換えるべきであると結論する。以上に加えて、本委員会は、ある元素からの、特に炭素C-14やトリチウムT の、壊変がもたらすリスクに注意を払い、そのような被曝を適切に荷重した。荷重はまたDNA に対して特に生化学的な親和性を有する元素、ストロンチウムSr やバリウムBa、そして、オージェ電子放出体である放射能についても加えた。

9. 本委員会は、同様の被曝はそのような被曝のリスクを決定するとの基礎に立って、放射線被曝を疾病に結びつける証拠を調査した。したがって、本委員会は被曝と疾病との関連についての全ての報告、すなわち、原子爆弾の研究から核実験降下物による被曝、核施設の風下住民、原子力労働者、再処理工場、自然バックグラウンド放射能、そして原子力事故について検討した。本委員会は、低線量での内部被曝による損害を紛れもなく示している2 つの被曝研究にとりわけ注目した。チェルノブイリ後の小児白血病と、チェルノブイリ後のミニサテライトDNA 突然変異についてである。これらのいずれも、ICRP のリスク評価モデルが100 倍から1000 倍の規模で誤っていることを示している。本委員会は、内部被曝や外部被曝によるリスクを示す事実からなる証拠を、健康への影響が予測されるあらゆるタイプの被曝に適用できる、新しいモデルでの被曝換算で荷重する根拠としている。ICRP とは違い、本委員会は、死を招くガンによる子どもの死亡率、特殊ではなく通常の健康被害に至るまで分析を行った。

10. 本委員会は、現在のガンに関する疫学調査は、1959 年から1963 年にかけて世界中で行われた大気圏内核実験による被曝と、核燃料サイクル施設の稼働がもたらした、さらに大量の放射能放出が、ガンや他の健康被害の明確な増加という結果を与えているとの結論に達した。

11. 本委員会ECRR の新モデルと、ICRP のモデル双方を用いて、1945 年以降の原子力事業が引き起こした全ての死者を計算した。国連が発表した1989 年までの人口に対する被曝線量を元にICRP モデルで計算すると、原子力のためにガンで死亡した人間は117 万6300 人となる。一方、本委員会のモデルで計算すると、6160 万の人々がガンで死亡しており、また子ども160 万人、胎児190 万人が死亡していると予測される。さらに、本委員会のモデルでは、世界的に大気圏内で核実験が行われその降下物で被曝した人々が罹患した全ての疾病を全て併せると10%が健康状態を失っていると予測されるのである。

12. 本委員会は以下を勧告する。公衆の構成員の被曝限度を0.1 mSv 以下に引き下げること。原子力産業の労働者の被曝限度を5 mSv に引き下げること。これは原子力発電所や再処理工場の運転の規模を著しく縮小させるものであるが、現在では、あらゆる評価において人類の健康が蝕まれていることが判明しており、原子力エネルギーは犠牲が大きすぎるエネルギー生産の手段であるという本委員会の見解を反映したものである。全ての人間の権利が考慮されるような新しい取り組みが正当であると認められねばならない。放射線被曝線量は、最も優れた利用可能な技術を用いて合理的に達成できるレベルに低く保たれなければならない。最後に、放射能放出が与える環境への影響は、全ての生命システムへの直接・間接的影響も含め、全ての環境との関連性を考慮にいれて評価されるべきである。


 

Radioactive Fish Near Fukushima Suggest Ongoing Contamination

Radioactive Fish Near Fukushima Suggest Ongoing Contamination

October 25, 2012

http://www.scientificamerican.com/article.cfm?id=fukushima-fish-remain-radioactive-suggesting-ongoing-radionuclide-release

Bottom-dwelling fish continue to be found with high levels of radioactive elements, potentially coming from leaking radioactive water or contaminated sediments

ByDavid Biello

The fish off Fukushima remain radioactive more than a year after the earthquake and subsequent tsunami triggered three meltdowns at the Daiichi nuclear power plant. In fact, bottom-dwelling greenling fish caught in August 2012 bore the highest levels of radioactive particles seen to date—25,000 Becquerels per kilogram. (A becquerel is a unit of the rate of radioactive decay—or radiation emitted by a substance.) That is 250 times higher than current Japanese safety standards, a key reason fishing off Fukushima remains prohibited.


RADIOACTIVE FISH: Some source of radioactive contamination is causing bottom-dwelling fish, like the greenling pictured here, to absorb high levels of radionuclides.Image: Flickr.com / Brian Gratwicke

The findings suggest that contaminated water is still leaking from the stricken power plant, the sea bottom itself is now laced with radionuclides, or both. Concentrations in the ocean water itself remain below any human health concern but they do pass into fish that swim through those waters.
"When fish 'drink' they take [cesium] and other salts up from the water they are swimming in, that accumulates in the muscle tissue," explains marine chemist Ken Buessler of the Woods Hole Oceanographic Institution, who compiled the analysis of publicly released Japanese fisheries data and published it in Science on October 26. But the fish also shed that cesium if they swim in uncontaminated waters, as has been seen in tuna that migrated from near Japan to near San Diego, suggesting that levels in fish should decrease over time. For this reason, most of the fish caught off Japan's northeastern coast are not radioactive. But roughly 40 percent of bottom-dwelling fish, such as flatfish or halibut, caught off the coast adjacent to Fukushima bear radionuclides above the Japanese food safety standard of 100 becquerels per kilogram.*
According to a response to questions from Scientific American that was prepared by staff at the U.S. Nuclear Regulatory Commission, ingesting fish at that level "would only produce a dose that is a small fraction of the dose that people receive from natural levels." For example, as Buessler notes, fish caught off Japan in June 2011 boasted levels of potassium-40—a naturally occurring radionuclide—10 times higher than those of radioactive cesium from Fukushima.
Radioactive cesium decays by emitting what's known as a beta radiation, a negatively charged particle that is easily blocked by metal, plastic or wood—but not skin. In particular, ingesting beta-emitting radioactive elements is "a concern," according to the NRC. "Beta particles released directly to living tissue can cause damage at the molecular level, which can disrupt cell function." Plus, beta particles are small enough to travel far in the body, causing damage far and wide.
U.S. safety guidelines from the Food and Drug Administration permit foods to bear 1,200 becquerels per kilogram of radioactive cesium, but the FDA declined to comment for this article. "The more restrictive action taken by the Japanese seems reasonable for the population living close to Fukushima because they receive radiation doses from other sources, including non-fish food, drinking water and land surface contamination," the NRC staff writes. "Based on the FDA and [World Health Organization] recommendations, eating fish contaminated at 100 Bq/kg would result in a small and acceptable exposure to radioactive cesium."

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http://www.scientificamerican.com/article.cfm?id=fukushima-fish-remain-radioactive-suggesting-ongoing-radionuclide-release&page=2

Because it takes decades for radionuclides to decay, fishing off Fukushima is likely to remain prohibited for many years. Exactly how long is uncertain, especially as the Tokyo Electric Power Company continues to struggle to contain and clean up millions of liters of contaminated waters at the Fukushima Daiichi nuclear power plant. And local waterways continue to wash radionuclides out to sea. "For the record, I was in Japan this past July and ate all types of seafood," says Buessler, who will hold a public colloquium on the findings November 14 at the University of Tokyo with colleagues. "The fisheries data like [those] shown here are used to keep certain areas and types of fish out of the markets. The question we can't answer is when will this no longer be of concern."
*Correction (10/26/12): It is 40 percent of bottom-dwelling fish, not all fish, caught near Fukushima that bear concentrations above Japanese safety standards.


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http://www.bbc.co.uk/news/science-environment-19980614


Timely reminder of Chernobyl disaster and containment

Timely reminder of Chernobyl disaster and containment



アップロード日: 2011/04/16
THE BATTLE OF CHERNOBYL and a horizon documentary about the nuclear disaster.

2 videos together giving a timely reminder of Chernobyl and how much worse it would have been without the mobilisation of hundreds of thousands of workers - indeed the phrase used was "the front line". Contrast this with the awful response of Japan and Tepco in a desperate attempt to minimise the crisis.

Also - from wikipedia article - how come the Nuclear industry worldwide is not paying for the immediate completion of the containment around Chernobyl.

The structure was originally intended to be completed in 2005, but the project has gone through several delays. As of June 2003 the projected completion date was February 2008. In 2009, planned completion was projected for 2012; the same year, progress was made with stabilization of the existing Sarcophagus, which was then considered stable enough for another 15 years. As of February 2010 the reported completion date was pushed back to 2013.[1]

The following schedule was released in June 2003:
12 February 2004 - complete the NSC conceptual design
13 March 2004 - Government of Ukraine to approve the conceptual design
13 June 2004 through 13 September 2004 - conduct a tender and sign a contract with the winner to proceed with relevant engineering and construction work
16 April 2006 through 20 May 2007 - lay foundations for the NSC
16 April 2006 through 22 October 2007 - fabricate steel arch segments, assemble, move in contact and secure arch sections
23 October 2007 through 19 February 2008 - install cranes, piping and lighting fixtures under the arch
20 February through 29 February 2008 - slide the arch structure in place over the existing Shelter

On 11 March 2004 the international tender for NSC design and construction was announced.

On 16 November 2004 technical proposals from potential contractors were opened. After evaluation two candidates were identified from the proposals. These candidates were invited to submit commercial proposals for the NSC. Evaluation of the commercial proposals began in September 2005.

In September 2006, the plant's general director Ihor Hramotkyn announced his intent to annul all bids on the project.[8]

On 17 September 2007, BBC News reported that the project contract was finally signed, with French consortium Novarka (consisting of Vinci Construction Grands Projets and Bouygues Construction as 50/50 partners) constructing the 190 by 200 meter arch structure. Construction costs are estimated as $1.4bn with a project time of 5 years.[9] The constructing consortium itself however reports slightly different numbers, mentioning a contract of 432 million euros, and dimensions of 150 meters length, 257 meters span and 105 meter height. Estimated time for completion was given as 53 months, including 18 months of planning and design studies, with a projected completion in mid-2012.[10]

In February 2010, the Director-General of the plant's facility administration projected completion of the NSC in 2013;[1] Novarka began construction in September 2010.[11]

http://en.wikipedia.org/wiki/New_Safe...
 

The Fukushima Nuclear Crisis: Separating Fact From Fiction

The Fukushima Nuclear Crisis: Separating Fact From Fiction



アップロード日: 2011/04/13
A panel of Simon Fraser University professors assembled on Monday, April 11 at the Morris J Wosk Centre for Dialogue to discuss the ripple effects of Japan's nuclear crisis.

SFU researchers Mark Jaccard, Corina Andreoiu, Kris Starosta and Paul Schaffer shared their expertise in a variety of disciplines as they address issues related to the disaster.

Among questions that they addressed are: How big are the risks? Are the levels of radiation detected in the Pacific Northwest dangerous? How safe is nuclear energy in general? How does the current crisis compare to accidents like Chernobyl and Three Mile Island? How does nuclear energy work?
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radioactive contamination with caesium (Cs-137, Cs-134) from fukushima found in tokyo soil.

radioactive contamination with caesium (Cs-137, Cs-134) from fukushima found in tokyo soil.




アップロード日: 2011/09/03
see 5:25 and 9:45 for the summary of findings!
seen in this video is a gamma spectrum, performed with a high-purity germanium detector.
in a 50 grams sample of soil (drain / gutter of streets) from the sagamihara area west of tokio (250 km from fukushima daiichi nuclear power plant), significant amounts of the synthetic caesium isotopes Cs-137 and Cs-134 were found. these manmade isotopes are from fukushima - unless there was another, yet unknown incident... meaning the contamination spread quite far.

2013年2月27日水曜日

Fukushima Radiation NOT SAFE!

Fukushima Radiation NOT SAFE!



アップロード日: 2011/12/11
Studies cited in order presented:

National Academy of Sciences Low-Dose Radiation Report
http://www.nap.edu/openbook.php?recor...
Data tables used, 12D-1 and 12D-2:
http://www.nap.edu/openbook.php?recor...
http://www.nap.edu/openbook/030909156...
How to scale that data to unique exposure scenarios, Annex 12D, Example 1:
http://www.nap.edu/openbook.php?recor...

15-country study of nuclear-worker cancer risk
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/17...
Table 5 shown is from Part II of the study
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/17...
http://iangoddard.com/15countries_Par...

Jacob et al. (2009) meta-analysis of nuclear-worker studies
http://oem.bmj.com/content/66/12/789....
Editorial on Jacob et al. quoted
http://oem.bmj.com/content/66/12/785....

Chromosomal translocations are associated with cancer
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/artic...

Boffetta et al. (2007) more chromoHarm entails more cancer
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/17...

Bhatti et al. (2010) meta-analysis of chromosomal damage
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/artic...


# Addendum #

Since I posted this video, the 'Bulletin of the Atomic Scientists' published a special edition on low-dose radiation, the lead article of which

http://bos.sagepub.com/content/68/3/1...

matches and thereby corroborates the case I present in this video. It also covers additional research and nuclear-industry efforts to derail scientific investigation of radiation risks.

Some friends created PDF files of this video available here

In English
https://docs.google.com/file/d/0B5qUO...

In Japanese
https://docs.google.com/file/d/0B5qUO...
http://www.chernobyl-chubu-jp.org/_us...

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☢ Low-Dose Radiation ☢ NEW A-Bomb Study



公開日: 2012/05/15
New atomic-bomb survivor study
Ozasa et al, 2012
http://www.rrjournal.org/doi/pdf/10.1...

Radiation Effects Research Foundation
http://www.rerf.jp/general/research_e...

Prior A-bomb-survivor studies covered

@ 6:10, Pierce & Preston 2000
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/10...

@ 7:35, Chomentowski et al, 2000
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/10...

@ 12:32, Preston et al, 2004
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/15...


Study on genetic damage cited
@ 10:13, Bhatti et al, 2010
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/20...

Quote of Pierce & Preston at @ 15:25 from Pierce & Preston 2000 above.

Dr Shunichi Yamashita quote @ 11:23 from
http://www.spiegel.de/international/w...

Dr Allison's comments @ 11:36 from
http://www.youtube.com/watch?v=LDIENa...

Japanese transcription of this video with detailed graphics
http://www.chernobyl-chubu-jp.org/_us...


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放射能はいらない! 食品汚染と生体濃縮 1/4~4/4

市川貞夫
放射能はいらない
http://youtu.be/VB8GjSQJLMM
アップロード日: 2011/07/01
【市川定夫】1935年大阪府生まれ。京都大学大学院修了。農学博士。米国ブルックヘ­ブン国立研究所研究員、メキシコ国立チャピンゴ農科大学大学院客員教授、埼玉大学理学­­部教授等を経て、現在、埼玉大学名誉教授。その間、伊方原発訴訟や原爆症認定訴訟な­どの原告側証人として放射線と遺伝の関係を証言。また、ムラサキツユクサの研究は有名­で­、ごく低線量でも生物に影響があることを証明。1995年から原水禁国民会議副議­長を務め、今年4月に議長に就任。

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放射能はいらない! 食品汚染と生体濃縮 1/4



アップロード日: 2011/09/11
原発推進派は、天然にも放射線源は存在し、人口放射能の影響はそれらと同じであるため­心配ない、と主張します。ところが、人口放射能は、生体に対し、天然放射能と少し違っ­た作用をするのです。

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放射能はいらない! 食品汚染と生体濃縮 2/4



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放射能はいらない! 食品汚染と生体濃縮 3/4




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放射能はいらない! 食品汚染と生体濃縮 4/4



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市川定夫 : 参考リンク

原発事故による放射線被曝について
橋 本 光 二
http://www.icd-japan.gr.jp/pub/vol43/vol43_06.pdf

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市川貞夫  : 参考リンク

http://www.yasuienv.net/Potassium40.htm

以下抜粋:

(1)天然の放射性核種と生物 市川定夫氏はこのように言っていたようだ。

 「さっき言ったカリウム40。こういうものが天然に昔からあったわけです。そういうものがあったら、そういう危険なものがある元素は人間や全生物はそういうものは『蓄えない』という形で適応してるわけ。つまり進化と適応、生物の進化と適応の過程で遭遇してきたものに対しては、それをくぐりぬけてきたものしか生き残ってないという形で結果として。だからこういうものを『蓄えない』、天然のこういうものを『蓄えない』生物なんかが生き残っているという形で適応して、自然の放射性核種を濃縮する生物はひとつもいません」。

 カリウム40を「特別に濃縮して蓄えるということを生物はしない。そんな生物はいない」なら正しい。しかし、地球上に存在しているカリウム40は天然存在比0.0117 %であり、この割合であらゆる生命は、カリウム40を体内に含んでいる。地球上のカリウムは、どのようなものであっても、1gあたり30.4Bqの放射線を出す。

 今回は、カリウム40の内部被曝をまとめてみたい。

 参考までに、市川定夫氏のプロフィール
  原水禁ニュース 2007.7号より

 1935年大阪府生まれ。京都大学大学院修了。農学博士。米国ブルックヘブン国立研究所研究員、メキシコ国立チャピンゴ農科大学大学院客員教授、埼玉大学理学部教授等を経て、現在、埼玉大学名誉教授。その間、伊方原発訴訟や原爆症認定訴訟などの原告側証人として放射線と遺伝の関係を証言。また、ムラサキツユクサの研究は有名で、ごく低線量でも生物に影響があることを証明。1995年から原水禁国民会議副議長を務め、今年(2007)4月に議長に就任。

 市川氏の若かりし頃のビデオが、ネット上にはいくつか転がっているが、チェルノブイリ事故の状況を説明しているもので、埼玉大学理学部教授であった時代のもので、かなり古いもののようだ。

 市川氏は、2011年12月に死去されたようだが、原水禁ニュースには記事がない。理由は不明。原子力資料情報室通信のもくじページには、
http://www.cnic.jp/modules/news/index.php?storytopic=5
の2012年2月1日号に小さく「市川定夫さん逝く」。

 市川氏は、ムラサキツユクサの色で放射線による突然変異を研究したとされているが、もしも、学術論文の存在をご存知の方が居られたら、ご連絡を。

 放射線によって色が変化するという可能性はないとは言わないが、それ以外の環境要因、例えば、土壌のpHでも色は変化すると思うので、どのぐらい厳密に研究が行われたのかを知りたいので。

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市川貞夫  : 参考リンク

http://blogs.yahoo.co.jp/yn0120jp/10121345.html

 ムラサキツユクサの研究。ごく低線量でも生物に影響があることが証明された。

»ÔÀî ÄêÉ×ÀèÀ¸
















【プロフィール】

1935年大阪府生まれ。京都大学大学院修了。農学博士。米国ブルックヘブン国立研究所研究員、メキシコ国立チャピンゴ農科大学大学院客員教授、埼玉大学理学部教授等を経て、現在、埼玉大学名誉教授。その間、伊方原発訴訟や原爆症認定訴訟などの原告側証人として放射線と遺伝の関係を証言。また、ムラサキツユクサの研究は有名で、ごく低線量でも生物に影響があることを証明。1995年から原水禁国民会議副議長を務め、今年4月に議長に就任。

──1935年お生まれですが、戦争体験の記憶で残っていることはありますか。

当時は大阪市天王寺区に住んでいましたが、自宅が焼夷弾で攻撃されて、浅靴をはいて防空壕や国民学校に逃げたりしました。その後、母が結婚前にいた金沢に移り、戦後、新制中学1年までいました。金沢は戦争中、京都、奈良と同じように空襲がなかったのですが、飛行機からの機銃掃射が少しありました。アメリカの戦闘機の攻撃で、国民学校で非常に仲の良かった自転車屋の友人だけが亡くなったことが鮮明に記憶に残っています。

──その後、遺伝学との出会いはどこからだったのでしょうか。

私が中学2年の時から大阪・北河内の神社の社務所に住むことになりました。中学2年の時、周りにあまりにもいろいろな種類の鶏が交配して雑多な種類の鶏が飼われていることが目につき、鶏の遺伝に興味を持ったのが最初でした。これは医師だった父の影響だと思います。父が持っていた遺伝の本を見て興味を持ちました。父が、鶏の新種(ミノルカ、横斑プリマスロックなど)を20羽ほど買ってくれて、鶏小屋を建てて観察をしました。そして、4種類の遺伝に関する発見をし、文部大臣から表彰されたりしました。
 そのようなことから、京都大学では、農学部で遺伝学を専攻しました。カラスムギ(燕麦)の遺伝を調べたり、学内でも遺伝研究のサークルを作ったりしました。大学院に進んでからはショウジョウバエなどの遺伝研究もしました。
1965年にアメリカの国立研究所が日本人にも開かれ、戦後初の正規研究者としてブルックへブン国立研究所(ロングアイランド)に赴任、65年8月から67年2月までそこで遺伝学を研究していました。その後、京都大学で1978年まで研究を続けましたが、その間、ペルーとボリビアへ植物調査に行き、71年~72年には、メキシコ国立チャピンゴ農科大学大学院で客員教授を務めたりしました。

──そのような市川さんが、どのような経緯で原水禁運動に関わったのでしょうか。

京都大学で化学系の先生を助けて、原爆に被爆した植物、動物などの調査を行ったり、化学、物理などの先生に頼まれ、石や瓦などの破片を集める手伝いをしたのが、原爆とかかわった最初です。その後、毎年のように広島に行き、78年に初めて原水禁運動に関わるようになりました。

──市川先生は、「ムラサキツユクサの研究」が有名で、全国の脱原発運動のなかで取り組みが進められましたが、どのようなことでしょうか。

アメリカのブルックヘブン国立研究所生物部のスパロー博士と共同で放射線生物学の遺伝研究を始め、その中でムラサキツユクサを取り上げました。ムラサキツユクサの、青とピンクのヘテロ(遺伝子の組み合わせ)は、微量の放射線と遺伝の関係を調べる上で格好のもので、放射線が生物細胞に与える影響を個々の細胞単位で直接的かつ確実に観察することが可能だったことです。
ムラサキツユクサのおしべの毛は一列に並んだ細胞から成り立ち、おしべの毛は先端部分の細胞分裂を繰り返して発達しますが、それが放射線などの影響で青の優性遺伝子に突然変異が起こるとピンクになり、それを容易に観察できるという特徴を持っているのです。それまで低線量あるいは微量の放射線の影響についてほとんどわかっていないのに、「微量なら安全」「微量なら無視できる」と宣伝されてきましたが、これにより、微量でも突然変異を起こすことを証明したのでした。
その後、浜岡原発の試運転のときに、地元の高校の生物の先生がこのことを知り、ムラサキツユクサを使って放射線と突然変異を調べることを提案し、74年から浜岡原発周辺で調べ始めました。試運転が始まったときから突然変異が増え、そのことが新聞・雑誌で話題になり、全国各地の原発周辺でも調査が進められました。
76年から高浜や島根原発で、78年には東海村でも始まり、結果はどこでやっても同じように出ました。海外でもアメリカやドイツなど原発周辺でムラサキツユクサが使われました。このことは、推進側がわからないようにしていた放射線を、ムラサキツユクサを使って科学的に明らかにしたことに意義がありました。私はこのことを岩波書店の「科学」で「ムラサキツユクサは訴える」として紹介しました。
ムラサキツユクサを使って原発に関わるきっかけができました。いまでも、ムラサキツユクサは特別なものという人もいますが、すでに海外でも認められているので、あからさまに否定できる人は少なくなっています。
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韓国被爆二世の会の李会長
(左)と(07年6月・釜山)

──被爆二世の運動にも関わり、6月の韓国・釜山で行われた日韓被爆二世シンポジウムにも出席されましたが、そのときの印象はいかがでしたか。

日本では、被爆二世もかなり認識されてきていますが、韓国ではあまり知られていないようです。これまでも韓国の被爆者は、韓国内でも放置されていました。それに日本政府もなかなか認めず、補償もせずにきました。放置してきた日本は重い責任があると思います。在外被爆者の補償をしっかりすると同時に、二世・三世の対策も同様に行う必要があると思います。

──ムラサキツユクサの研究を発表されて以降、研究はどのような方向に進まれましたか。

80年代からは、人工化合物と人工放射線の問題を追及しました。すでに人工化合物は9万種類ともいわれ、これまでの人類が経験したことがない状況を招いています。これまで人類は、人工物に対して識別能力を持っていなかったし、そのことを知りませんでした。人工化合物と人工放射線の2つを合わされると相乗効果が発揮され、そのことが人類の種としての生存にとって非常に脅威となるものです。自然界になかったものを人間が作るべきでなかったと思っています。その象徴的なものとして、核兵器、原発、劣化ウランがあります。

──最後に新しい議長として、今後の原水禁運動への抱負をお願いします。

今後の原水禁運動を進めるうえで、私のこれまでの研究成果を活用して欲しいし、それを理解してくれる人を増やしたいと思います。特に、低線量放射線の問題や人工放射性核種と人工化合物との相乗効果などは、核兵器、原発などを廃絶するうえでも重要なポイントだと思います。自然界には存在しなかった、つまりあらゆる生物がかつて遭遇したことがなかったもの、適応のすべを知らない多様な人工のものが、どうして私たち人類や他の多種多様な生物に繁栄をもたらしうるのでしょうか。
 私たちは、長年にわたって、科学技術の「発達と発展」という、誤った「宗教」を信じさせられ、誤った道を辿ることを強要されていたのです。こうした事実を真剣に改めて考え直す緊急の必要性が迫っているのです。それを原水禁運動の中でも訴えていきたいと思います。

〈インタビュ─を終えて〉

今回は市川先生のインタビューです。森滝さん、岩松さんを引き継ぐ、原水禁の議長に就任されました。私は、労働運動に参加した1970年代に、大阪で、市川さんの「ムラサキツユクサ」による原発の告発を知りました。そのことが、市川先生との最初の出会いでした。原水禁は、現在、多くの課題に直面しています。市川さんのご奮闘が期待されています。ぜひ頑張ってください。  (福山真劫)
 
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2013年2月26日火曜日

「縮み」志向の日本人 李御寧(イー・オリョン) 松岡正剛の千夜千冊

転載:

松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/1188.html

李御寧(イー・オリョン)

「縮み」志向の日本人

学生社 1982



たたむ・よせる・つめる・けずる。

盆栽・生け花・床の間・四畳半。

一寸法師・桃太郎・牛若丸。

パチンコ・トランジスタ・ウォークマン。

日本人はなぜ「小さきもの」が好きなのか。

枕草子と俳句の国の文化を、

イー・オリョンが韓国文化と比較して大胆に読み砕く。

そこをまた松岡正剛が読み砕く。




  たいへん話題になった本だ。アジア人によるジャパノロジーを画期したともいわれた。

 李御寧(以下はイー・オリョンと表記)の著書は、本書の前にすでに『恨の文化論』が日本語に翻訳されていたのだが(のちに改題され『韓国人の心』となった)、イー・オリョンの名がとどろいたのは本書からだった。その後も『ふろしき文化のポストモダン』(改題後『「ふろしき」で読む日韓文化』)や『俳句で日本を読む』(改題後『蛙はなぜ古池に飛びこんだか』)といった、興味をそそる本が次々に連打されていったけれど、なかでは本書『「縮み」志向の日本人』がつねにロングセラーを続けてきた。

 それもそのはずで、本書を当時読んだころの印象でいうと、あれこれ眼を洗われるような指摘がつまっていた。その打率は、264夜に紹介した金両基の『キムチとお新香』を上回る。主眼は日韓の社会文化をめぐる比較なのだが、それだけではなく、日本社会や日本文化の特徴も実に鋭く摘出していた。日本の長所と短所の案配もいい。その視点から、日本の知識人による日本社会文化論にも容赦なく注文をつけた。それがウケた。

 たとえば、韓国には「若衆宿」のようなものはないのだから、日本は中根千枝がいうようなタテ社会ではなく、むしろヨコ社会ではないかとか、土居健郎は日本人の「甘えの構造」を指摘し、それによって日本人の依存心を強調したが、むしろ日本人がよくつかう「大丈夫」とか「裸一貫」に注目して日本人の意外な自立心を強調してみてもいいのではないかとか(韓国には大丈夫という言葉も裸一貫という言葉もない)、そういう注文もつけたのである。

 が、大半は日本や日本人に「縮み志向」を見いだす作業に徹している。まだ本書を読んでいない諸君のために、かんたんな案内をしておく。ただし、ぼくの補足と異論も加えておこう。

 当初、イー・オリョンは日本の昔話に、一寸法師や桃太郎や牛若丸といった“小さな巨人”がよく出てくることを訝しく思っていた。韓国の昔話にはこういうヒーローはいない。韓国にあるのは腋の下に鱗がはえている巨人チャンスウであり、巨岩のような弥勒たちなのだ。

 もっといえば「小人」という言葉もない。韓国語には「拡大」をあらわす言葉はあっても、「縮小」をあらわす言葉がない(らしい)。韓国語のワンはキングサイズという意味で、ワン・デポは特大の杯、ワン・ヌンは大きな眼、ワン・ボルは熊ん蜂をあらわす。が、この逆が少ない。けれども日本語には縮小をあらわす言葉が多く、またとても大切にされている(と著者は感じた)。「ひな」「まめ」「小屋」「小豆」「小夜更けて」などだ。だいたい何かをつくりあげることを日本では「細工」という。そのうえに「小細工」という言葉もある。これはどういうことなのか。

 そう思っていろいろ日韓を比較してみると、ごはん茶碗なども韓国のサバルにくらべて日本のごはん茶碗は小さいし、ボリョと座布団も大きさがちがう。これはひょっとして、中国や朝鮮で日本人や日本のことを古来「倭人」とか「倭国」とよんでいたことと関係があるのかという気になってきた。また日本人がよく「島国根性」だといわれてきたことと関係があるのかとも憶測された。


包む機能と敷く機能、標識機能をもつふろしき
(絵本江戸紫」石川豊信筆、明治2年)

 その後、イー・オリョンは世界の説話を調べて小人伝説はどこの国にもあり、韓国にも二、三の昔話があることを知るのだが、しかしさらに日韓を比較していくと、やっぱり日本には縮小をめぐる美意識やリトルサイズに関する感覚的な思想があるように思われた。

 日本神話にはスクナヒコナや、粟の茎にはじかれて常世(とこよ)にわたった小さな神のような話がけっこう多く出てくる。江島屋其磧の読本ベストセラー『魂胆色遊懐男』には大豆右衛門が出てきて、フランソワ・ラブレーのガルガンチュアが巨大志向をもっているのに対して、やたらに芥子粒ほどの小人になりたがっている。これはのちのトランジスタ志向やウォークマン志向につながるものも感じる。

 これはどうも、日本では「小さいものには特別の魅力がある」ということではないのか。調べてみると、『万葉集』で最もたくさん歌われた花は「萩」である。141首にのぼる。どうしてあんな小さな花の密集が好きなのか。中国や韓国では萩はめったに詠まれない。加えて日本人は「藤」も大好きだ。小さな粒のような花が字目に落ちていく。

 考えてみれば「桜」の花も小さい。おそらく日本では「うつくし」は「くはし」(細し)なのである。

 中国や韓国の小説にくらべて、日本の小説に“短編”が多いのも気になってきた。短編小説どころか、掌篇小説なんてものもある。岡田三郎、武野藤介、川端康成が得意とした。中国にも短編小説はあるものの、古来、『三国志』や『西遊記』や『水滸伝』などの大河小説こそが王道だった。

 こうして、イー・オリョンはこうした日本の縮小志向の代表的な例が俳句にあらわれていることに気がつく。

 韓国にも「時調」(シジョ)という短詩型はあるけれど、これは俳句の3倍ほどである。俳句はたった17文字。世界で最も短い文芸型なのだ(俳句については、のちに『蛙はなぜ古池に飛びこんだか』でさらに徹底した分析を加えている)。

 極小主義。日本にはこれがあるのではないか。ミニアチュアリズム。日本人はこれが好きなのだ。日本には極端ともいうほどの「縮み志向」があるようなのである。本書はこんな推理をものしたのである。

 理由を考えてみた。イー・オリョンは、とりあえず6つにおよぶ「縮み志向」の型を分類した。入籠(いれこ)型、扇型、姉さま人形型、折詰弁当型、能面型、紋章型である。必ずしもぴったりこないものもあるが、何を言いたいのか、わかるだろうか。

 【入籠型】は日本人が好きな「込める」という意識をフィーチャーさせている。たとえば石川啄木(1148夜)の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」という歌だ。広大な東海の荒波から蟹のような小さなものに視線が急激にズームインされている。一気に縮小されている。その効果を支えているのは、31音24文字の短歌のなかに「の」がたくさんつかわれていることによる。4つの名詞が「の」だけで連結されている。「の」を込め、「の」による入籠(いれこ)のイメージをつくっている。

 こういうことは韓国語にも韓国の詩歌にもあまりない。イー・オリョンは、日本人は「の」の作用によって何かをあらわそうとしているにちがいないと考えた。

 啄木には「春の雪 銀座の裏の三階の 煉瓦造りにやはらかく降る」もある。東京・銀座・裏・三階というふうに狭めた視野が雪になる。それが「の」によってつながっていく。これは「箱の箱の箱の‥」という「入籠の感覚」なのだろう。

 次の【扇型】とは、扇子のように折りたためるものを日本人が好むことをさしている。扇子だけでない。着物もたたむ。洋服までハンガーに吊るさずたたんでいた昭和前半史があった。しかも扇子は礼儀にもつかうし、日本舞踊にもつかう。落語では箸になったり櫂になったりする。大相撲では呼び出しがこれによって東西の力士を招く。扇は何にでも見立てられるのだ。

 このような扇的発想は、韓国にはないらしい。そのうえ日本人は折り畳み傘やカップヌードルのような、世界中の誰もが考えなかった「縮み商品」も発案してしまう。

 3つ目の【姉さま人形型】とは、ネーミングはいまひとつわかりにくいのだが、わかりやすくいえばミニチュア志向ということである。清少納言の『枕草子』このかた、たしかに日本人は木形子(こけし)や盆栽や模型やフィギュアが大好きなのだ。ただイー・オリョンが、このミニチュア志向こそが「仮名」を生んだとか、挨拶を「どうも、どうも」と省略するようになったとか説明しているところは、いささか納得がいかない。

 【折詰弁当型】については説明はいらないだろう。日本には王朝期に貴族たちが野遊びをしていたころからからずっと、また農民が野良仕事をしていたころからずっと、行器(ほかい)、曲げわっぱ、破籠(わりご)、提げ重、重箱などの弁当型の纏め方が目立ってきた。

 ポータブルな持ち運び自在の弁当が発達しただけではなく、そこに何をどのように詰めるかという工夫がされた。小さな間仕切りもした。その工夫は小学生の弁当やコンビニ弁当にまでつながっている。いまでもどこの料理屋やレストランでも、お昼は松花堂弁当や光悦弁当や利休弁当である。駅弁となれば、90パーセントが折詰め幕の内になっている。かつて栄久庵憲司が「幕の内弁当の美学」とよんだのもこのことだ。

 そこでイー・オリョンは「詰める」のが日本人なのだとみなした。そう見れば、会話のなかでも「見詰める」とか「詰めが甘い」とか、また「張り詰める」「大詰め」「詰め込み学習」などと「詰め」がつかわれる。「缶詰」という呼称も日本っぽい。

 5つ目の【能面型】は、能面のように無表情だということを言いたいのではない。能面はむしろ多様であって、そのヴァージョンには驚くほど劇的な表情がこもっている。

 ここで能面型というのは、日本には「動きを止める美意識」が徹底しているというのだ。いいかえれば「動きを縮めている」と言いたいのである。たしかに北斎の波や広重の雨は、みごとなストップモーションになっている。それどころか日本文化の多くの遊芸や武芸にも、ストップモーションがはたらいている。歌舞伎の見得、お茶のお点前、剣道の仕草、相撲の仕切り、弓の準備、書道の呼吸、小笠原流の礼法などは、まさに「動きを止める美意識」によって支えられている。イー・オリョンによれば、日本人が中間表情を重視しているのも能面型に入るのではないかという。

 【紋章型】とは「凝る」ということだ。日本人は凝り性なのだ。それをなぜ紋章型というのかというと、イー・オリョンには家紋や旗印や馬印がおもしろいらしい。日本酒のラベルもヨーロッパのワインにくらべてずっと多様で豊饒に見えるのだという。とくに韓国の社会文化とくらべると、日本の紋章には特徴があるらしい。

 韓国では「族譜」というものがあって、そのちがいによって系譜的に人を見る。家系というよりも血族だ。それに対して日本の紋章は「家」を単位にしている。血がつながっていても家が分かれれば、別の家紋が自立する。それが半纏にも暖簾にも染められる。そしてやがては「組」に発展し、さらには「名刺」になっていった(名刺の流行は万延元年にアメリカに派遣された新見正興の名刺)。イー・オリョンはそれを紋章型と名付けたのだった。

 もっとも、それがどうして「凝る」に関係するのかはいまいちわかりにくい。紋章ならヨーロッパのワッペン主義もかなりのものだと思えるからだ。

 ともかくも以上が日本の縮み志向6型なのである。さまざまな特徴を総合的に並べたて、それを系統に分けて文化人類学的に分類したとは思えないが、かといって気まぐれな思いつきでもなく、日本を知る外国人研究者独特の勘のようなものがはたらいている。

 いじわるでもない。むしろかなり好意的な見方だといっていいだろう。イー・オリョンはソウル大学で国文学を修め、梨花大学と国際日本文化センターの客員教授を務め、さらに韓国最初の文化大臣を歴任した名うての文化学者である。後には韓国文化勲章も受賞した。日本研究も筋金入りなのだ。なかでも俳句については、自分でもはまってしまうほどの偏愛ぶりだ。

 だから日韓のどちらかに軍配を上げようとはしていない。できるだけ両国の文化を見渡して、かなり際立つ違いに注目することに徹してみただけなのだ。そこに浮上したのが「縮み」だったのである。それゆえこれらの6型を通して、イー・オリョンは日本の書店に文庫本があふれていること、三省堂のコンサイス辞典や旺文社の豆単がロングセラーであること、カラオケルームがあんなに小さいことなどを好ましく例証してもいた。

 しかしでは、日本人がなぜこのような「縮み」を好んだのかということになると、以上の6型だけの説明では必ずしも論証できたというふうにはならない。不足も目立つ。そこでイー・オリョンは日韓の比較を適当にやめ、本書の後半では日本の側から「縮み」の検証をするようになっていく。ふたたびぼくなりに整理してみよう。

  一言で説明すれば、日本では「引き寄せ」が重視されてきたということだ。
万葉古今このかた雪月花を愛でるにあたって日本人は、花は手折り、雪は少量を盆に活け、月も外で眺めるよりも蔀戸(しとみど)や御簾(みす)ごしに見ることを好んだ。

 自然と全面的に対峙して観照するのではなくて、その美の一部をスクリーニングして引き寄せた。イー・オリョンは書いていないけれど、これを「いけどり」とも「寄物陳思」ともいう。日本に借景の慣習があるのも「引き寄せ」や「いけどり」による。

 そこでイー・オリョンはふたたび日韓をくらべて、韓国は“車輪”でそこへ向かおうとするのに対して、日本は“綱”で引き寄せているというやや強引なメタファーを用いた。李奎報の『四輪亭記』に、山の麓をめぐる四方六尺の車輪のついた亭子(あずまや)を夢想する場面が出てくるのを引いて、韓国人はおおむねそこへ行くことのほうを選ぶのだというのだ。これに対して日本人は、万葉の「田子の嶺に寄せ綱はへて寄すれども」の東歌に代表されるように、あるいはまた出雲の「国引き」神話にあるように、美しいものや麗しいものを引き寄せたがる。それは「車輪と綱」のちがいではないかというのである。

 強引だが、なるほど、そういう面もあるかもしれない。ソウルの秘苑と京都の桂離宮をくらべてもこのことは如実だ。秘苑は自然の景観のままに見る者をすっぽり包みこむけれど、桂離宮は景観が区切って見えるようになっている。

 かくして引き寄せの美学は、当然ながら引き寄せたものを小さくするとも見なければならない。また引き寄せたものがいくつもあれば、それらを巧みに配置することになる。これが桂離宮などの回遊式庭園を発達させた。

 このことはさらに次のことを生んだとも説明できるだろう。それが枯山水の石立てなどに象徴される石庭の美につながっていく。いくつもの石を持ってきて(引き寄せて)、それを巧みに配置して、それをもって庭とする。しかもそれらを巨山や大海とみなしてしまう。小さくしながら、大きなイメージを思い浮かばせる。

 このことを日本文化に詳しいイー・オリョンが「見立て」という言葉で説明しなかったのは意外だが、これはまさに「見立て」という方法なのである。

 ついでにいえば、石立てによる引き寄せや見立ては、花立て、すなわち生け花(活花・立花)にも転用された。室町期の華道書『仙伝抄』は、花を立てるときは「沢辺、川、入江などの風情も立てるべし。野は野のものを立て、山は山のものを立つる、それぞれのごとくなるべし」と指南した。また生け花のための枝ぶりには、「陰、陽、嶺、滝、市、尾」を感じるようにと指南した。

 まさに「それぞれのごとくなるべし」という見立てであり、同時にそれらは「ごとしの縮景」、「らしさのシュミレーション」なのである。曾呂利新左衛門が6尺の鉢に桜を盛って吉野山に見立てた例を引くまでもない。こうして、石庭で姿を消した花は生け花となり、さらには盆栽になったのだ。

 ぼくが感心したのは、このような傾向を、イー・オリョンが「それゆえ日本の縮みの歴史はハサミの歴史でもあったのではないか」と指摘していたことだ。利休が庭の朝顔をみんなちょん切って一輪だけを床の間に飾った例もある。江戸後期の池坊専定の『挿花百規』に椿の葉を6枚まで剪った例もある。これらはいってみれば日本のハサミの美学でもあったのである。

 見立てにハサミが使われたばかりではない。立体裁断をしてこなかったキモノの裁縫の歴史も、折り紙の発達も、そして盆栽も、まさに日本のハサミの大活躍だった。いやいや俳句の「切れ字」も“言葉にハサミを入れた例”だったのかもしれない。

 20年前の本書が「座」の文化や「数寄」の文化に注目していたことも特筆すべきことだった。

 侘び茶や草庵や「囲ひ」(茶室の古い呼称)のこと、躙口(にじりぐち)や床の間の花器や茶掛けの小ささのこと、露地や飛び石が「市中の山居」の縮景であることなど、とくにあらためて紹介することもないけれど、それなりに十分な説明をしようとしていた。また、一期一会の思想を「時を切る」ものとして、あるいは「人生は散るもの」としてのハサミにつなげようとしているのも、好もしかった。

 「寄合」の文化をさきほどの「引き寄せ」につなげて、「寄席」や「寄せ鍋」と比較しているところもおもしろい。

 なかで「取り合わせ」に言及して、寄合も取り合わせも寄席も同じではないかと暗示していたのは、ぼくなら「アワセ・カサネ・ソロイ」と説明してきたところだが、それにしてもよくぞ日本文化に“寄っていった“ものだった。

 ざっとは、こういうことである。総じて、よく日本文化に介入したというべきだろう。しかし、しかしながら、こんなふうな数々の説明には長けたイー・オリョンも、そのイー・オリョンを読んだ日本人も、なかなかうまく説明できないことがある。それは、これほどに「縮み」を愛した日本人が、いったいなぜ「軍事大国」や「経済大国」をめざしたのかということだ。多くのジャパノロジストが疑問をもつのは、この点なのである。

 そもそも日本が「縮みの民族」の歴史をもってきたのかどうかということが、問われる必要がある。古代においては朝鮮半島とその海域に拡張を求めていたのだし、1038夜に詳しく書いたように、秀吉の大陸進出の野望はそうとうなものだった。満州事変以前でも、日本は日清日露を通して植民地をほしがり、日韓併合を完遂していた。

 もし日本に「縮み志向」があるのなら、日本はしっかりとした「小国主義」をもってきたはずなのだ。しかし、内村鑑三(250夜)石橋湛山(629夜)を除いて、どうもこのような小国思想ははっきりしてこなかった。ぼくは宮沢時代に「経済大国」や「生活大国」の合言葉が打ち出されたとき、呆れてしまったものだ。

 仮に、それでも日本文化の多くは「縮み志向」をもっていたとして(鎖国をその例に入れるとして)、それを「縮み」という表現で説明できるのかということもあろう。実は本書にはその後いくつもの批判が寄せられたのだが(著者は反論に答えもしたが)、その多くは日本人は「縮み」という言葉自体をたいして愛していないということだった。むしろ「縮みあがる」とか「縮こまる」といった卑小なイメージをもっているというのだ。

 ぼくはこういう批判はどうでもいいと思っている。「縮み」と言わずに「小さきもの」とか「盆景感覚」といえばすむのかという程度の問題だ。したがって「縮み志向」という用語が妥当かどうかは、このさい議論する必要はない。難問はあくまでも、日本には小国思想がなぜ育まれなかったのかということなのである。

きを止める美意識でささえられる茶の礼法
セイゴオマーキング


  この難問は、できればこれからの日本人がすべからくとりくんだほうがいい問題であるが、ぼくなりにはすでに見当がついている。

 それをいまは暗示的に言っておけば、日本がおかしくなるときは、結局「取り合わせ」の方法や「数寄の方法」を見失ったときなのである。ひたすら海外のサイズをそのまま呑みこもうとしているときなのだ。そのままにロールとルールとツールをまるごと鵜呑みしようとしているときなのだ。

 これはいまなら「グローバリズムの陥穽」とも片付けられようが、この言い方だけでは説明にはなるまい。外からのものを受容しようとしていること自体が、問題なのではない。そんなことは古代こかたやってきたことなのだ。そうではなく、それらの“編集”をしなかったときが問題なのである。内外の文物や制度や思想を取り交ぜ、組み合わせ、数寄のフィルターをかけなかったことが問題なのだ。

 たとえば科挙をそのまま取り入れたら、どうなっていたか。科挙は中国のような巨大な人口と縁故をかかえた大国にはふさわしくとも、日本には必要のない制度だった。それなら、同様に、植民地も必要がなかったはずである。たしかに飢饉や農村部の窮乏はあったけれど、それを満州で補えるかといえば、そんなことも不可能だったはずなのだ。

 内村や石橋が反旗をひるがえしたのは、そこなのだ。戦火を交えることのすべてを否定するわけではない。闘うこともときには必要だ。けれどもそれが国内社会の矛盾の解消になるかといえば、そんなことはこれまでの戦争の歴史を見れば(百年戦争からナポレオン戦争をへてナチスまで)、あきらかなのである。

 では、そういう戦争を仕掛けられなくなった戦後憲法を抱いた日本という国が、代わって経済の大国や生活の大国をめざしていればいいのかといえば、これでは露地も躙口もへったくれもないことだ。俳句の切れ字もないことだ。

 いまの日本は「余白」を失っている。すべてを世界基準に照らした制度にしようとしているために、かつての「余白」が消えて、むしろさまざまな局面で衝突をおこしている。

 過剰なのである。導入も過剰、反応も過剰、留保も過剰なのである。そうなってしまったからと言ってはいけない。すでに導入してしまったものも、あきらめてはいけない。もう一度、組み直すべきである。こういうときには「縮み志向」というよりも、大胆で高速の「編集志向」を発揮するべきなのである。

 既存のしくみでは余白はつくれまい。かつて枯山水が生まれたのは、禅の方丈の前庭という禁忌の場所だった。そこには庭などつくってはいけなかった場所なのだ。それを白砂と石で庭を組んだのは、山水河原者(せんずいかわらもの)の力と才能を借りた禅僧たちだった。その庭はかつて誰も見たことがないものだった。『山水思想』(五月書房)に詳しいいきさつを書いたことである。

 このような発想と入れ替えと、小さなタブーへの挑戦が必要なのである。イー・オリョンには申し訳ないが、日本人が「縮み志向」になる前には、つねにこうした挑戦があったのであると、ぼくは言っておきたい。



附記¶イー・オリョンの著書は『韓国人の心』『蛙はなぜ古池に飛びこんだか』『「ふろしき」で読む日韓文化』のいずれも学生社。日韓文化比較論として読むのもいいが、諸君が見落としてきた日本文化の意外な例示をたのしむのもいいと思う。たとえば風呂敷を、「西洋のカバン、日本の風呂敷」というふうに比較するのではなく、「加減の文化」に思いいたり、ときに「おんぶ」を生んだ日本の子守り社会に言及するというところが、この著者の真骨頂なのである。

物部氏の正体 関裕二  松岡正剛の千夜千冊

転載:

松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/1209.html

関裕二
物部氏の正体

東京書籍 2006



そら見つ日本(やまと)の国。

この名はニギハヤヒによって作られた。

そのニギハヤヒを祖とする物部氏。

かれらは、古代日本に何をもたらしたのか。

蘇我氏と崇仏の是非を争っただけではなかった。

それ以前から、ヤマトの建国にかかわっていた。

いや、天皇家よりも前にヤマトを治めていたのかもしれない。

いや、大和以前に出雲や吉備にいたのかもしれない。

物部の謎は、日本の謎である。




 数ある古代日本の謎のなかでも物部(もののべ)の謎ほど、深くて怪しいものはない。

 研究者たちも、こと物部をめぐっては百花繚乱というよりも、むしろお手上げの状態だ。ぼくもかつて直木孝次郎や鳥越憲三郎のものや、70年代後半に出版された黛弘道の『物部・蘇我氏と古代王権』とか、畑井弘の『物部氏の伝承』などを読んでこのかた、物部氏をめぐる謎をずうっと気にしてきたのだが、どうにも埒があいてはいなかった。

 いろいろ理由があるのだが、なかでも、和銅3年(710)の平城京遷都のおりに、石上(物部)朝臣麻呂が藤原京の留守役にのこされてからというもの、物部一族は日本の表舞台からすっかり消されてしまったということが大きい。この処置を断行したのは藤原不比等だった。このため、物部をめぐる記録は正史のなかでは改竄されてしまった。物部の足跡そのものを正確に読みとれるテキストがない。

 だから物部の歴史を多少とも知るには、『古事記』はむろんのこと、不比等の主唱によって編纂された『日本書紀』すらかなり読み替える必要がある。のちに『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)という物部氏寄りの伝承をまとめたものが出るのだが、これも偽書説が強く、史実として鵜呑みにすることは、ほとんどできない。

 なぜ物部はわかりにくいのか。なぜ物部一族は消されたのか。たんに藤原氏と対立しただけなのか。その物部氏はなぜ『先代旧事本紀』を書かざるをえなかったのか。こういうことはまだあきらかにはされていないのだ。

 いったい物部は歴史を震撼とさせるような何かを仕出かしたのだろうか。それとも、物部の足跡を辿られては困るようなことが、日本史の展開のなかや、記紀の編纂者たちの事情にあったのだろうか。こういうこともその全貌はわかってはいない。

 けれども、記紀、古代歌謡、『先代旧事本紀』、各地の社伝などを徹底的に組み直していけば、何かは見えてくる。その何かは、ひょっとしたらとんでもないことなのである。とくに神武東征以前における物部の祖にあたるニギハヤヒ(饒速日命)の一族の活躍は、古代日本の本質的な謎を暗示する。

 一方、畑井弘の研究がすでに示唆していたことであるが、実は物部一族とよべるような氏族はいなかったという説もある。

 物部とは、「物具」(もののぐ=兵器)を中心とする金属生産にかかわった者たち、「フツノミタマ」を祀っていた者たち、「もののふ」として軍事に従った者たちなどの、幾多の「物部八十伴雄」(もののふのやそとものお)と、その後に「物部連」(もののべのむらじ)としてヤマト王権の軍事・警察・祭祀をつかさどった職掌にあった者たちとの、すべての総称であったのではないかというのだ。

 まあ、そういう説があるのはいいだろう。しかし、仮にそうだとしても、やはりそこにはフツノミタマを奉じる一族がいたであろうし、石上神宮の呪術を司る一族がいたはずなのだ。そして、その祖をニギハヤヒと認めることを打擲するわけにはいかないはずなのだ。ぼくは、やはり物部一族が“いた”と思いたい。

 では、物部とはどんな一族だったのか。出自はどこなのか。物部が仕出かしたこととは何なのか。ヤマト朝廷と物部の物語はどんな重なりをもっていたのか。

ヤマト地方の豪族勢力図

 一般には、物部氏の名は、蘇我氏の「崇仏」に反旗をひるがえした物部守屋の一族だというふうに知られてきた。神祇派が物部氏で、崇仏派が蘇我氏だと教えられてきた。

 しかし、こんなことは古代日本史が見せたごくごく一部の幕間劇の出来事にすぎず、そのずっとずっと前に、物部の祖先たちがヤマトの建国にあずかっていたはずなのである。このことについてはあとで詳しくのべるけれど、いまそれを端的にいえば、神武やヤマトタケルの東征に先立って、すでに「物部の祖」たるニギハヤヒのヤマト君臨があったのだろうということになる。

 本書は、この謎にかかわって、類書にない仮説を展開してみせた。著者の関裕二には、これ以前に『蘇我氏の正体』『藤原氏の正体』があって、その総決算としてごく最近に本書が綴られた。1998年にも、本書の前身にあたる『消された王権・物部氏の謎』を書いた。

 著者は歴史作家という肩書になっているが、1991年に『聖徳太子は蘇我入鹿である』を発表して以来、つねに古代日本の語られざる謎の組み上げをめざして知的踏査を試みてきた。最近は『かごめ歌の暗号』で、例の「籠の中の鳥」の正体を追いかけた。その姿勢と鋭い推理力は、そんじょそこいらのアカデミシャンの顔色をなさしむるところがある。お偉いさんたちの学説にも惑わされていない。むろん、お偉いさんの成果もそれなりに咀嚼している。

 とはいえ、これから紹介する著者の仮説が全面的に当たっているかどうかは、わからない。いろいろ齟齬もあるし、まだ論証が薄いところも少なくない。なにしろ物部氏の謎は、古代史の謎のなかの謎なのだ。けれども、ぼくが類書を読んできたかぎりでは、いまのところはこの仮説が一番おもしろい。まあ、覗いてみてほしい。

 仮説のクライマックスに入る前に、古代日本の最も重大な前史にあたるところを、予備知識として理解しておいたほうがいいだろう。記紀神話に属するものだ。

 したがって、これから書くことには史実とはいえないところが多いのだが、あるいはまだ確証されていないことも多いのだが、それならそれらのすべてデタラメかというと、必ずしもそうとは言い切れない。そこを忖度して、まずは読まれたい。大事なのは、アブダクションの効いた想像力をはたらかせることだ。

 時代は天皇初代の神武のころの話に一気にさかのぼる。『日本書紀』には、こう書いてある。

 出雲に国譲りを強制したアマテラスの一族は、使節や息子たちを「地上」に降臨させることを思いつく。何度かの失敗のあと、ホノニニギノミコトが全権を担った。ホノニニギは猿田彦らに導かれて真床覆衾(まどこおうふすま)にくるまり、日向の高千穂に降りた。

 ホノニニギはその後、長屋の笠狭碕(野間岬)に赴き、さらに南九州の各地で子孫を落とすと、そのなかからヒコホホデミ(山幸彦)が衣鉢を継承し、その子にウガヤフキアエズが生まれた。さらにその子にイワレヒコが育った。これが『書紀』によって初代天皇とされたカムヤマトイワレヒコこと、神武天皇である。

 神武は45歳のときに、こんなことを側近たちに洩らした。「わが天祖(あまつおや)が西のほとりに降臨して179万2470余年が過ぎた。しかし遠く遥かな地では、われらの徳も及ばず、村々の長(おさ)も境を分かって互いに争っている。ついては、シオツチノオジ(塩土老翁)に聞いたところ、東のほうに四方を山に囲まれた美しい土地があって、そこに天磐船(あまのいわふね)に乗って飛び降りた者がいるらしい。

 思うに、そここそわれらの大業を広めるにふさわしいのではないか。その飛び降りた者はニギハヤヒノミコト(饒速日命)という名だとも聞いた。私はその地に赴いてみようかと思う」。
 神武は、この年の10月5日、もろもろの皇子や軍団を率いて東をめざした。神武東征のスタートである。

 北九州の遠賀川付近から瀬戸内に入り、ついに難波碕に辿り着いた。そこから淀川をさかのぼって河内の草香邑(くさかのむら)に寄り、ついで竜田(奈良県葛城郡王子)へ向かおうとしたところ、あまりに道が狭く、生駒山に方向転換をした。

 このとき、この神武の動向を聞きつけた者がいた。長髄彦(ナガスネヒコ)である。どうやらそのあたり(河内・大和一帯)を押さえている土着の首長らしい。

  長髄彦は「天神(あまつかみ)がやってくるというのは、わが領域を奪おうとしているにちがいない」と判断し、兵をあげて神武一行と対峙した。両軍は孔舎衛坂(くさえのさか=東大阪日下町)で激突し、神武の兄のイツセノミコト(五瀬命)が負傷した(その後、イツセは紀の国で亡くなった)。

 苦戦を強いられた神武一行は、「私は日神(ひのかみ)の子孫なのに、まっすぐ東に向かったのはまちがいだった」と言い(太陽の運行に逆らったと言い)、タギシミミノミコト(手研耳命)を先頭に、迂回して熊野からヤマトに入ることにした。

 熊野にはタカクラジ(高倉下)という者がいて、あるとき夢を見た。アマテラスがタケミカヅチ(武甕雷神・建御雷神)に語って、「葦原中ツ国はまだ乱れている。お前が行って和ませなさい」と言われたというのである。タケミカヅチは自分が行かなくとも、私のもっている立派な剣があれば平定は可能だろうから、これを天孫(神武)に提供しようと判断した。

 この剣は「フツノミタマ」というものだった。タカクラジが夢からさめると、はたして「フツノミタマ」が蔵にある。さっそく神武に差し上げた。

 かくて神武は進軍を始めるのだが、道が険しくて難渋する。そのとき八咫烏(ヤタノカラス)が飛んできて、神武の一行を導いた。そこにヒノオミノミコト(日臣命)が加わった(ヒノオミは大伴氏の祖。道臣命ともいわれる)。

 それでも一行はやはり苦戦を強いられたのだが、なんとかヤマトに近づき、莵田(うだ)の高倉山(奈良県大宇陀)にのぼって周囲を見渡すことができた。国見丘にヤソタケル(八十梟師)が軍団を従えて陣取っているのが見えた(『古事記』ではヤソタケルは土蜘蛛とされる)。これではヤマト入りは難しい。どうするか。

 するとその晩、神武は夢を見た。天神(あまつかみ)があらわれ、こう告げた。「天香具山の社のなかの土をとって、天平瓦(あまのひらか)を80枚つくり、あわせて厳甕(いつへ)をつくり、天神地祇を敬って祇り、厳呪詛をおこないなさい。そうすれば敵は平伏するだろう」。

 神武はさっそく、シイネツヒコ(椎根津彦)に蓑笠をかぶらせて老父の恰好をさせ、弟には老婆の恰好をさせ、天香具山の土をとりにいかせた。案の定、敵兵が道を埋めていたが、二人の姿を見ると「みっともないやつらだ」と笑い、口々に罵声を浴びせた。その隙をついて二人は山に入り、土をとって帰ってきた。神武は丹生の川上(吉野あたり)で八十平瓦(やそひらか)と厳甕をつくって、天神地祇に祈って敵の調伏をした。

 事態は突破できそうだった。神武たちはいよいよ長髄彦を攻めた。すると長髄彦が使いをよこして、こんなことを言ってきた。

 「すでにこの地には天神(あまつかみ)のクシタマニギハヤヒノミコト(櫛玉饒速日命)が降りてこられ、わが妹のミカシギヤヒメ(三炊屋媛)を娶り、ウマシマジノミコト(宇摩志麻治命=可美真手命)をお生みになり、この地をヤマトと名付けられました。そこで私はニギハヤヒを主君として仕えているのです。いったい天神はお二人いるのでしょうか。ひょっとしたらあなたは天神の名を騙り、この地を乗っ取ろうとしているのではないですか」。

 神武が答える。「天神の子はたくさんいるのです。もし、あなたが主君と仰ぐニギハヤヒが天神の子であるというなら、必ずその証拠の品があるはずでしょう。それを示してほしい」。
さっそく長髄彦は天羽羽矢(あまのははや)と歩靫(かちゆき)を差し出した。神武は納得する。ところが、長髄彦は戦さをやめる気はなかった。これを察知したニギハヤヒは事態がねじれていくのをおそれて、長髄彦を殺してしまった。

 神武はニギハヤヒのこの処置を見て、ニギハヤヒが自分に忠誠を誓っていると判断し、和睦し、寵愛することにした。かくしてニギハヤヒは物部氏の祖となった。神武は、初代天皇ハツクニシラススメラミコトとして即位した。

 これが、『日本書紀』が伝えている物部氏の物語の発端のあらましである。それは、神武のヤマト入りと即位の物語を決定づけるストーリーとプロットをもっていた(ちなみに『古事記』にもニギハヤヒの一族が神武に恭順を示した話は載っているが、長髄彦の誅殺にはまったくふれていない)。

 この、すこぶる曰く付きの物語で見逃せないのは、ヤマトにはすでに神武以前にニギハヤヒが降りていた(入っていた)だろうということ、そして、その地を「そら見つ日本(ヤマト)」と名付けていたということ、かつ、ニギハヤヒは神武同様のなんらかの神宝を持っていたということだ。

 この記述にしたがうと、『日本書紀』はなんと物部氏と天皇家を同等にみなしていたということになる。つまりニギハヤヒは天津神の一族の祖か、さもなくばアナザー天孫族の一族のリーダーなのだ。それだけではなく、ニギハヤヒのほうが神武のヤマト入りより先なのだ。

 これは天皇家に先行する「もうひとつの天皇家」を想定させるものとして、驚くべきことではあるが、ただし、これだけでは合点がいかないことも多々ある。

 ヤマトを守るために戦おうとしていた長髄彦の勢力からすると、神武一行を蹴散らすのは容易だったはずなのに、それをしなかったのはなぜなのか。のみならず、ニギハヤヒは長髄彦を殺してまで、神武に対する恭順を示したのはなぜなのか。長髄彦がニギハヤヒを守って神武に対決した理由も、これだけでは意味がよくわからない。

 いや、そもそも二人の天神(天津神)がいることの理由がわかりにくくなっている。天皇家の祖先にあたるホノニニギ以下の天孫族が九州を基盤に東に上ってきたのに対して、なぜにまたニギハヤヒは単独で直接にヤマトに入っていたのか、その事情も見えない。『日本書紀』はニギハヤヒがヤマト(大和=日本)の命名者だと書いているのだから、ヤマト朝廷のルーツもニギハヤヒにありそうなのであるが、その関係が見えにくい。

 このような謎を解くには、さまざまな物部伝承を調べなければならない。本書もさまざまな伝承から仮説の鍵を持ち出している。

 たとえばそのひとつ、島根県の大田(おおだ)に物部神社がある。ウマシマジを祀っている。
ここの社伝では、ウマシマジは神武東征にあたって神武を助け、その功績が認められてフツノミタマの剣を賜ったとある。ウマシマジはその後、天香山命(ウマシマジの腹違いの兄)とともに兵を率いて尾張・美濃・越を平定し、さらに西に進んで播磨・丹波をへて石見に入り、そこの鶴降山(つるぶせん)で国見をして、八百山が天香具山に似ていたので、そこに居を構えたというふうにある。

 神武に恭順したのはニギハヤヒの子のウマシマジのほうで、そのウマシマジこそが各地の平定を引き受けたというのだ。この社伝通りだとすると、物部氏はずいぶん動きまわっていたことになる。しかし、この話でいささか解せないのは、それほどに統一ヤマトの成就に功績のあるウマシマジが、いったいなぜ大和から遠い石見あたりに逼塞するかのように収まってしまったのかということだ。

 また、ひとつ。さっきも示しておいたように、物部系の事跡については『先代旧事本紀』という一書がある。平安期の延喜年間に書かれた。誰が書いたかはわかっていない。それはともかくとして、ここにはウマシマジは神武がヤマトに入ったのちに、天物部(あまのもののべ)を率いて各地を平定したことになっている。これは何なのか。

 古代日本でアマという言葉をもつのは、「天なるもの」か「海なるもの」を示している。天ならば天孫系(天皇家ないしは渡来系)で、海ならば海洋部族の系譜だ。しかし、記述にはそのどちらとも言明されてはいない。こういうことはよくある。日本の事跡記述はデュアルなのである。

 いずれにしても、天物部による各地の平定があらかた終わったあと、神武は即位し、ヤマト建国がなされた。『先代旧事本紀』はそのあとの出来事についても、気がかりなことを書いていた。

 ウマシマジは天瑞宝(あまみつのたから)を奉献して、天皇のための鎮祭(しずめまつり)をとりおこなったというのだ。この天瑞宝が、物部氏の神宝として有名な「十種神宝」(とくさのかんだから)となったともある。このとき、ヤマト朝廷の「践祚」などに関する儀礼や行事が整ったというふうにも書いてある。

 物部が天皇家に「十種神宝」を贈って、それが即位儀礼の中核になったとは、にわかに肯定しがたいけれど、では、ほかに初代天皇の即位に関する記述がどこかにあるかといえば、まったくお手上げなのだ。

ウマシマジを祀る物部神社
(島根県大田市)

 天物部やウマシマジの地方での活躍は、『日本書紀』にも『古事記』にも載っていないことだった。しかし、こうした記述をそのまま認めるとすると、これは物部氏の儀式を天皇家が踏襲したというふうになろう。

 これは聞きずてならない。いや、胸躍ることである。なぜなら、『日本書記』神武紀は、ニギハヤヒの貢献をあえて重視したわけだ。物部氏の祖が初代天皇即位にあずかっていることは、認めたのである。聞きずてならないにもかかわらず、無視はできなかったのだ。

 いいかえれば、古代日本の中央に君臨する記紀テキストと、傍系にすぎない物部氏の記述とは、互いに不備でありながら、互いに補完しあっていると言わざるをえないのだ。ただし、そこには奇妙な「ねじれ」がおこっている。その「ねじれ」の理由こそ、おそらくは「天皇家の謎」にも「物部氏の正体」にもかかわっている。そう見ていくと、いろいろの事跡や記録が気になってくる。

 こういうこともある。天皇即位後の最初の新嘗祭では、造酒童女(さかつこ)が神事をしたあと、物部氏が参加する。こういう例は数ある他の豪族には見られない。物部氏だけが関与しているトップシークレットなのだ。

 また、ひとつ。こういうこともある。『先代旧事本紀』には、ニギハヤヒがヤマトに入ったときに、そこに猿女君(サルメノキミ)が同行していて、その猿女がその後の天皇の即位や鎮魂にあたって祝詞をあげたというふうにも書いているのだ。

 猿女とは天の岩屋の前で踊ったアメノウズメの一族をいう。アマテラスによっては高天原パンテオンの収拾がつかなくなったとき(スサノオとの対立で)、これを救ったのが猿女たちだった。実はホノニニギの天孫降臨のときも猿女がかかわっている。その猿女がニギハヤヒの降臨にかかわっていた。

 まあ、こういった話がいくらでも出てくるのだ。しかしながら、このような断片をたんに寄せ集めても、なぜ物部氏の儀式を天皇家が踏襲するのか、その真意はあいかわらずはかりがたい。「ねじれ」も浮上してこない。

 まだまだ物部に関する記述は各方面にいろいろあるけれど、とりあえずはこのくらいにして、ごく基本的な材料は提供したということにしておく。

 それでもすでに予想がつくように、これらの材料からはどうみても、物部氏が天皇家の君臨以前の王朝づくりにかかわっているのは確実なのである。ただ、「ねじれ」の原因が見えてこないのだ。
ぼくが本書をとりあげたのは、この「ねじれ」を暗示する出来事に関裕二が着目していたからだった。その着目点は一首の「歌」と「弓」にかかわっていた。

 元明天皇が和銅元年(708)に詠んだ歌がある。『万葉集』に載っている。こういう歌だ。「ますらをの鞆(とも)の音(ね)すなり もののふの大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも」。

 元明天皇が誰かが弓の弦を鳴らしているのに脅えているらしい。岩波の『万葉集』の注解では、これから東北の争乱などを制圧するために、武人たちが軍事訓練をしているのを元明天皇は気になさっている。そういう解釈になっている。

 しかし、東北の争乱を平定するための武人たちの訓練を天皇が脅えるというのは、おかしい。むしろ頼もしく思ってもいいくらいであろう。だからこの解釈は当たっていない。そこで、上山春平は「もののふ」は武人たちのことではなく、特定の物部氏のことだと見た。それなら「もののふの大臣」とは、石上朝臣麻呂のことなのである。当時の大臣だった。

 石上は物部の主流の家系にあたる。石上神宮は物部氏を祀っている。数々の不思議な儀式もあって、しばしば「物部の呪術」ともいわれている。

 たとえば「一二三四五六七八九十」(ひふみよいむなやこと)と唱えて、そのあとに「布瑠部由良由良止布瑠部」(ふるべゆらゆらとふるべ)と呪詞を加える。これは宮中で旧暦11月におこなわれてきた鎮魂祭(たましずめのまつり)とまったく同じ呪詞で、天皇家のオリジナルとは思えない。物部の呪詞がまじっていった。

 そういう物部一族の頂点にいる石上朝臣麻呂が、兵士が弓の弦を鳴らすのとあわせて、楯を立てているというのだ。デモンストレーションである。おそらく天皇はそのデモンストレーションの真意に脅えているにちがいない。関はそのように推理した。

 なぜそんな推理がありうるのか。実は、元明天皇は藤原不比等によって擁立された天皇だった。その元明天皇のあと、平城京の遷都がおこる。これによって不比等の一族の繁栄が確立する(857夜)。一方逆に、石上麻呂は、この歌の2年後に平城京が遷都されたときは、藤原京に置き去りにされた。そういう宿命をもつ。つまり中央から切られたのだ。不比等の仕業であったろう。

 こういう事情を勘案していくと、元明天皇が恐れたのは、石上麻呂に代表される物部一族やその残党がおこしそうな「何か」を恐れていたということになる。その「何か」がデモンストレーションとしての「ますらをの鞆の音」に象徴されていたのであろう。それがつまり、弓の弦を鳴らす音だった。


物部氏が祀った石上神宮
(奈良県天理市)

 古代日本では、弓の弦を鳴らすことはきわめて重要な呪術であった。その呪術を石川麻呂が宮中で見せたのだ。天皇はギョッとした。いや、もっとギョッとしたのは藤原不比等だったろう。

 なぜなら、この呪術はもともとは三輪山の神を呼び出す呪術だったからである。タマフリの一種と見ればいい。しかし天皇と藤原氏には、こんなところで三輪の神が威力を見せてもらっては困るのだ。

 三輪の神とは何かというと、言わずと知れた化け物じみたオオモノヌシ(大物主神)である。そのオオモノヌシを石川麻呂が宮中で持ち出した。オオモノヌシの呪術は、すでに藤原体制が整いつつあった現行天皇家にとっては、持ち出されては困る「何か」であった。

 かくて話はいよいよクライマックスにさしかかる。ニギハヤヒは三輪の神の謎にかかわっていたのだ。

 オオモノヌシについては、日をあらためて大いに議論しなければならないほど重大な神格をもっている。

 いまはそこを省いて物部伝承の核心に向かっていくことにするが、それでも次のことを知っておく必要がある。オオモノヌシは古代日本形成期の時と所をこえて(時空をこえて)、二重三重に重要場面の中心人物になっているということだ。少なくとも二通りの重大なオオモノヌシがいる。出雲神であって、三輪神であるというデュアル・キャラクターとしてのオオモノヌシだ。A面とB面としておく。

 A面のほうのオオモノヌシは出雲パンテオンで大活躍する。スサノオの6世孫にあたる。ただし名前がいくつもある。『古事記』ではオオクニヌシ(大国主命)、あるいはアシハラシコヲ(蘆原醜男)、ヤチホコ(八千矛)などとして、『日本書紀』では主としてオオナムチ(大己貴神・大穴牟遅神)として出てくる。

 これらはまったく一緒だとはいわないが、まずは同格神ないしは近似神と見ていいだろう。しかも、これらには別名としてオオモノヌシの名も当てられている。いまはとりあえず「大国主」の名に統一しておいて話をすすめるが、それでも出雲神話における大国主は5つものストーリー&プロットに出てくる主人公のため、複雑をきわめる。

 (1)因幡の素兎伝説、(2)根の国の物語、(3)八千矛の物語、(4)国作り神話、(5)国譲り神話、だ。出雲パンテオンは大国主だらけなのだ。

 このうち、今夜の話にかかわってくるのは(4)と(5)である。(4)の「国作り」においては、大国主はスクナヒコナ(少名彦神)と協力して「蘆原中ツ国」を作ったということになる。「蘆原中ツ国」はヤマト朝廷ないしは原日本国のモデルだと思えばいい。もうちょっとわかりやすくいえば、いわば「出雲王朝」とでもいうべき国を確立させた。高天原の天孫一族(つまりは天皇の一族)に先行して、出雲近辺のどこかに国のモデルを作ったということだ。

 ただし、この先行モデルがはたして本当に出雲地方の国のことだったのかどうかははっきりしない。別の地方の話かもしれないし、別のモデルが混じっているかもしれない。

 (5)の「国譲り」においては、大国主はその国を、アマテラスあるいは神武、あるいはその後に続く天皇一族のヤマト朝廷作りのために、ついに譲ってしまったというふうになる。

 話はこうだ。アマテラスは出雲をほしがった。そのためアメノオシホミミ(天忍穂耳命)を遣わしたが、戻ってきた。次に使者にたったアメノホヒノは大国主の威力に感化されて帰ってこない。そこでアメノワカヒコ(天稚彦)を使者とするのだが、殺されてしまった。その弔問のため、今度はアジシキタカヒコネが訪れたのだが、埒はあかない。

 ついにタケミカヅチ(前出=のちの春日・鹿島の神)とフツヌシ(経津主命)が出向くことになった。タケミカヅチは大国主に出会うと、十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いて、これを逆さまに波がしらに突き立てて脅し、「お前の領有する蘆原中ツ国は、アマテラスの支配すべき土地だ。どう思うか」と問いつめた。大国主は、その返事はわが子のコトシロヌシ(事代主神)が答えると言う。コトシロヌシは中ツ国をアマテラスに献上してもいいと言う。

 やむなく大国主は、ついでタケミナカタ(建御名方神=のちの諏訪の神)を交渉にあたらせた。が、タケミナカタはタケミカヅチに押し切られた。こうして出雲は「国譲り」されることになった。

 かくてアメノオシシホホミにあらためて降臨の命令がくだるのだが、オシホホミは自分のかわりに息子のホノニニギを行かせることにした。これが真床追衾による天孫降臨になる。

 こういう展開になっているのだが、ここでイミシンなのは、国譲りをしたA面の大国主が、国を提供するかわりに出雲神をちゃんと祀りなさいと約束させていることである(これが出雲大社のおこりだとされている)。このことは、実は大国主が実はオオモノヌシであって、三輪の神でもあるということにつながっていく。

 そこでB面のオオモノヌシのことになる。これは三輪にまつわっている。ずばり三輪の大神としてのオオモノヌシだ。

 この三輪の神話もいくつかにまたがる。蛇体にもなるし、オオナムチの和魂(にぎみたま)にもなる。神武記では、オオモノヌシは丹塗りの矢と化して、セヤダラタラヒメ(勢夜蛇多良比売)に通じたし、『古事記』崇神記では、イクタマヨリヒメのもとに通う素性の知れない男としてあらわれ、実はその正体が三輪山のオオモノヌシだったという話になる。いろいろなのだ。

 なかで注目すべきなのは『日本書紀』の崇神紀にのべられている話で、ここに古代日本の天皇崇拝から伊勢信仰にいたる、まことに重要な秘密の数々が暗示されている。そこから物部の秘密も派生する。大略、こういう話だ。

 ミマキイリヒコこと崇神天皇は、神武から数えれば第10代にあたる。都を大和の磯城(しき)の瑞籬宮(みずがきのみや)に移した。ところが疫病が多く、治世の困難が続く。

 いろいろ考えてみると、アマテラスとヤマトノオオクニタマの二神を一緒くたにして、しかも天皇の御殿内部に祀っていたのが問題なのだろうという気になってきた。

 そこでトヨスキイリヒメ(豊鋤入姫)に託して、アマテラスを大和の笠縫に祀った。またヌナキイリヒメ(淳名城入姫)にオオクニタマを託した。けれどもヌナキイリヒメは病気になった。どうもいけない。このとき、崇神の大叔母のヤマトトビモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)が激しく神懸かった。トランス状態になった。

 驚いた崇神はさっそく神占いをした。ヤマトトビモモソヒメの口を借りた神託は、「三輪の大神オオモノヌシを敬って祀りなさい」という意外なものだった。崇神はまだ納得がいかない。するとオオモノヌシは「わが子の太田田根子を祭主として祀れ」と言ってきた。

 いったい大物主とか太田田根子とは何者なのか。けれども崇神は従った。太田田根子を捜しだしもした。こうして事態がしだいにおさまってきた。

 やがてモモソヒメはオオモノヌシのもとに嫁いだ。けれどもオオモノヌシは昼のあいだは姿を見せず、夜に忍んでくるだけである。モモソヒメは堪えられずに、姿が見たいとせがむと、オオモノヌシは「翌朝の櫛匣を見よ」と言う。モモソヒメはそこに、おぞましい蛇の姿があるのを見た。オオモノヌシは蛇体だったのである。やがてモモソヒメは陰部を突かれ、死ぬ。巨大な箸墓(はしはか)に祀られた。いま、纏向(まきむく)遺跡のなかにある。

 オオモノヌシによって大和が安泰になったので、崇神は次には、各地に四道将軍を派遣した。各地を平定しようというのだ。

 北陸を大彦命に、武淳川別(たけぬなかわわけ)を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命(たにわのちぬし)を丹波に託した。なかでも吉備津彦は山陰山陽をよく支配した。のちの吉備の国である。かくて万事が治まってきた。こうして崇神はハツクニシラススメラミコト(御肇国天皇)となった。

 ざっとこういう話なのだが、ここで周知の大事なことをあきらかにしておかなくてはいけないのは、1071夜の『天皇誕生』でも書いたように、記紀神話においてはハツクニシラススメラミコトは二人になっていて、それが神武と崇神であるということだ。

 もっともこれにはすでに決着がついていて、実際の初代天皇ハツクニシラススメラミコトは崇神だったということになっている。ということは、神武の話や東征の話はあとから付会したものだということになる。神武天皇とはフィクションなのである。架空の人物なのだ。

 つまり、これまでのべてきた神武がヤマト入りするにあたって、ニギハヤヒの力を譲ってもらったり、長髄彦を殺害したという話は、あとから辻褄をあわせた出来事だったのだ。さっきいろいろ書いておいた神武の話は、そのままか、ないしはそのうちのかなりの部分を、崇神やそれ以降の天皇家の出来事にあてはめなくてはいけない。

 ということを断っておいて、さて、ここまでの話で、何が見えてくるかというと、こういうことになる。

 まずは物部=石上の一族は「弓の弦を鳴らす呪術」を通じて、三輪に結びついていたということだ。物部氏は三輪と深い縁をもっていた。

 これは、物部が三輪を支配していたことを物語る。いいかえればニギハヤヒは三輪の地の支配者だったということになる。先行ヤマトの支配者だ。そのニギハヤヒは三輪の大神オオモノヌシを奉じていた。

 ところが、三輪の神のオオモノヌシは、もともと出雲(あるいはその近辺)と結びついていた。大国主とはオオモノヌシのデュアル・キャラクターだった。そして、その大国主が「蘆原中ツ国」という国のモデルをつくっていた。このモデルをアマテラスに象徴される天孫一族がほしがった。

 すったもんだのすえ、大国主は国譲りを承認した。そのかわり、出雲と三輪にまたがる威力を称えつづけること、祀りつづけることを約束させた。天孫一族はこれを受容した。つまりヤマトは、こうして出雲を通してオオモノヌシを最重要視することになったのだ。

 これらの事情が、のちに神武のヤマト入りにニギハヤヒがかかわった話に組みこまれた。おそらく、このような複雑な事情をもつ文脈を整えざるをえなくなったのが、崇神天皇なのである。だから、崇神まではヤマト朝廷はあきらかにオオモノヌシを大神と仰いだのだ。

 いま、大神といえばアマテラスにしか使えない称号になっている。しかし、少なくとも崇神の時代前後は大神はオオモノヌシのことだった。しかしその後、アマテラスを大神(おおみかみ)と称することになると、オオモノヌシは「おおみわ」と称ばれる大神に格下げされた。これがいま、三輪山の麓にある大神(おおみわ)神社である。今夜はそのあたりの説明は省くけれど、これは天皇(大王=おおきみ)の称号が「イリ彦」から「別(わけ)」に変わっていくあたりの変質で、もっと言うなら継体王朝以降に改変されたことだったろう。

 さらにはっきりいえば、藤原氏が王権を牛耳ることになって、失われた歴史書『帝起』と『旧辞』(蘇我氏が焼亡させたということになっているが、これも真相ははっきりしない)を、新たに正史『日本書記』にまとめる段になって、アマテラスを一挙にオオモノヌシの優位においたのであったろう。そして、このとき、いっさいの「ねじれ」が生じることになったのだ。


オオモノヌシを祀る大神神社
(奈良県桜井市)

 だいたいは、こういうことだったのではないかと思われる。さあ、ここからは、さまざまな話を重ねて考えることができてこよう。

 そもそもは、やっと崇神の時代にヤマト朝廷の基礎が築かれたのだろうということだ。それも、三輪を治めていた“オオモノ氏”の協力によるものだったろう。

 その“オオモノ氏”の一族は、それでは最初から大和にいたのかというと、どうもそうではなく、出雲か山陰か山陽から来て大和の三輪山周辺に落ち着いたのであろう。そのことを暗示するひとつの例が、崇神による四道将軍・吉備津彦の派遣になっていく。吉備津彦がわざわざ山陰山陽の平定に派遣されたということは、そこにはすでに先行の国のモデルがあったということになる。

  本書も、ここからは「三輪のオオモノヌシ」が実のところは「出雲のオオモノヌシ」(大国主)からの転身であること、しかし実際の国作りのモデルは大和ではなく、それに先行して出雲や吉備にもあったのではないかというふうになっていく。

 さて、そうだとすると、出雲の国作りや国譲りの物語も考えなおすべきところがあるということになる。

 そうなのである。本書は物部氏の本貫を吉備ないしは出雲にもっていく仮説だったのだ。なるほどそうであるのなら、太田の物部神社の伝承や、ウマシマジが丹波をへて石見に入ったという話もいささか合点がいく話になってくる。ニギハヤヒの一族は石見に逼塞したのではなくて、もとからその地方の勢力に深く関係していたわけだ。

 そして、神武以前にニギハヤヒが長髄彦を伴ってヤマトを治めていたという、あのストーリー&プロットは、実は出雲を含む山陰山陽の出来事の投影だったということなのだ。

 なお、大国主をめぐっては881夜で紹介したように、オオクニヌシ系とアメノヒボコ集団の対立と抗争という見方もあるのだが、ここではその視点は外してある。

 それでは、いったい以上のような「物部氏の先行モデル」はいつごろヤマトに入ってきたのであろうか。いいかえれば「物部の東遷」とは、どういうものだったのか。天物部のような物部集団が移動したのだろうか。

 それともモデルだけが動いたのか。そのモデル自体(システム?)のことをニギハヤヒとかフツノミタマというのだろうか。それこそは「神武の東遷」という物語そのもののモデルだったのか。今度は、こういう問題が浮上してこよう。

 すでにのべておいたように、物部氏の祖のニギハヤヒは天磐船に乗ってヤマトに降臨したという。そして「そら見つ日本(ヤマト)の国」と、そこを呼んだ。

 このいきさつが何を物語っているかといえば、ニギハヤヒは神武のように西からやってきたか(天のアマ)、そうでなければ朝鮮半島や南方からやってきた(海のアマ)という想定になる。いったい物部はどこからヤマトに入ってきたというのだろうか。

 そのひとつの候補が、出雲や吉備に先行していた物語だったのではないかというのが、本書の推論だ。これは十分に想定できることだ。

 もっとも、このことについては、すでに原田常治の『古代日本正史』という本がセンセーショナルに予告していた。「ニギハヤヒは出雲から大和にやってきたオオモノヌシだ」という仮説だった。

 しかしここで、もっと深くアブダクションしていくと、その出雲や吉備よりもさらに先行する出来事があるとも予想されてくる。神武がそうであったように、すべての物語は実は九州あるいは北九州から始まっていた(そうでなければ朝鮮半島であるが、この視点はここでは省略する)。

 そうなのである。ここにはもっと大きな謎がからんでくるのかもしれない。古代史の最大の論争の標的になっている「邪馬台国はどこにあったのか」という論争が浮上してくるのだ。その邪馬台国のモデルが、いつ、どのように、誰によってヤマトに持ち込まれたのかという話が、根底でからんでくることになる。

 これについては、もはや今夜に予定した話題をこえるので差し控えるが、すでに谷川健一の『白鳥伝説』や太田亮の『高良山史』などにも、いくつかのヒントが出ていた。

 その仮説の大略は、邪馬台国を北九州の久留米付近の御井郡や山門郡あたりに想定し、そこにある高良山と物部氏のルーツを筑後流域に重ねようというものである。

 手短かにいえば、1011夜の『日本史の誕生』でも書いたように、中国の後漢が朝鮮半島をいよいよ制御できなくなったとき、日本に「倭国の大乱」がおこった。このとき卑弥呼が擁立されて邪馬台国ができたのであろうが、この擁立期ないしは、そのあとの邪馬台国と狗奴国との争闘後のトヨ(台与)の擁立のころに、物部氏とともに邪馬台国のモデルが東遷していったのではないかというのである。その時期こそ崇神天皇の時代にあたるのではないかというのだ。

 これはヤマトトビモモソヒメの箸墓が、最近になって、とみに卑弥呼の墓ではないかという仮説ともつながって、はなはだ興味深い(ぼくはこの説に70パーセントは賛成だ)。しかし、どこまでが確実な推理なのかは、決めがたい。まあ、こんな仮説もあって、邪馬台国問題が大きく浮上してくるわけだった。 

 長くなってきましたね。このあたりで閉じましょう。

 だいぶんはしょって話を進めてきたが、本書は物部と吉備の関係については、さらに詳しい推理を展開している。それは本書を読んでのたのしみにされたい。

 ぼくとしては、これで、長年気になっていながらなかなか埒があかなかった「物部氏の謎」についての、とりあえずの封印を切ったということにする。

 が、実のところは、これではまさに封印の結びをちょっと切っただけのことで、ここからはもっと驚くべき謎や仮説が結びの下の匣の中から飛び出てくるはずなのだ。物部の謎はパンドラの匣なのである。

 そこには、まずはオオモノヌシをめぐる大問題がある。オオモノヌシの「祟り」は、古代日本の最初にして最大の祟りだが、それは崇神紀だけではなくて、たとえば出雲振根(いずものふるね)の悲劇などにもあらわれている。

 ヤマト朝廷の確立は、ヤマト作りに貢献した者たちに必ずしも報いてはこなかった。そこには「ねじれ」があった。応神天皇に従っていた武内宿彌(たけのうちのすくね)がヤマト朝廷確立ののちに裏切られたという謎もある。これも「ねじれ」のひとつであった。

 ねじれたというなら、出雲の物語の大半がヤマト朝廷をどのように優位におくかという編纂によって、すべてがねじれてしまったといっていいだろう。そこには「出雲オオモノヌシのヤマト的三輪神化」というテキスト変換による巧妙な説明はあるにせよ、そしてそこには「ニギハヤヒとは結局はオオモノヌシではないか」という、本書にすら示されなかった大仮説も潜むことになるのだが、それ以外にもいくらでも仮説は出てくるはずなのである。

 いや、そうということだけではないほどに、「ねじれ」は古代日本の出発にかかわる巨大な謎になっている。そしてそこに、そもそもは物部氏の一族が藤原氏によって徹して裏切られたという、今日につづく天皇家の謎があったのである。

 おそらく正史『日本書紀』が大問題なのだ。もとより『日本書記』は不備だらけなのであるが、この不備は、もともとは意図的だったかもしれないのだ。その意図を誰が完遂しようとしたかといえば、これはいうまでもなく、藤原氏だった。だとすれば、藤原氏は何によって改竄のコンセプトを注入したのかという、こちらの大問題がこのあと、どどっと控えているということになる。本書の著者は『藤原氏の正体』というものも書いている。857夜の上山春平とはずいぶん異なる仮説になっているが、気になる諸君はページを開いてみられたい。

 いずれにしても、物部氏の謎は古代最大の謎の結び目だ。ぼくもそのうち、パンドラの匣から飛び出てくる幾多の問題を、気がむいた夜にひとつずつとりあげたい。「日本という方法」の発端はそこからいくらでも出てこよう。「千夜千冊」の遊蕩とは、そのことだ。今夜はその前哨戦の、そのまた前哨戦だったと思われたい。



附記¶関裕二の著書は次の通り。『天武天皇・隠された正体』(KKベストセラーズ)、『聖徳太子はだれに殺されたのか』(学習研究社)、『謎の出雲・伽耶王朝』(徳間書店)、『古代神道と天皇家の謎』『抹殺された古代日本史の謎』(日本文芸社)、『消された王権・物部氏の謎』『大化改新の謎』『壬申の乱の謎』『海峡を往還する神々』(PHP研究所)、『蘇我氏の正体』『藤原氏の正体』『呪いと祟りの日本古代史』『かごめ歌の暗号』(東京書籍)、『沈黙する女王の鏡』(青春出版社)など。

物部氏については、直木孝次郎『日本古代の氏族と天皇』(塙書房)、鳥越憲三郎『女王卑弥呼の国』(中公新書)、黛弘道『物部・蘇我氏と古代王権』(吉川弘文館)、畑井弘『物部氏の伝承』(吉川弘文館)、原田常治『古代日本正史』(同志社)、田中卓『日本国家の成立と諸氏族』(国書刊行会)、亀井輝一郎『古代豪族と物部氏』(吉川弘文館)、谷川健一『白鳥伝説』(集英社文庫)、太田亮『高良山史』(石橋財団)、大和岩雄『二つの邪馬台国』(大和書房)、小椋一葉『消された覇王』(河出書房新社)、神一行『消された大王・饒速日』(学研M文庫)など。吉備との関係については、門脇禎二ほか『吉備』(吉川弘文館)、前田晴人『桃太郎と邪馬台国』(講談社現代新書)、門脇禎二『出雲の古代史』(NHKブックス)など。

これらをもしまったく何も読んでこなかったのであれば、やはり『日本書紀』(講談社学術文庫のものをお勧めする)を読むのが最初だ。あとはお好みのままだが、やはり原田常治『古代日本正史』と大和岩雄の一連の著作は一度は開いてみてほしい。そのうちとりあげたい。