2013年12月31日火曜日

中独合作


中独合作

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%8B%AC%E5%90%88%E4%BD%9C

中独合作(ちゅうどくがっさく、: 中德合作、(「徳」はドイツのこと): Chinesisch-Deutsche Kooperation: Sino-German cooperationChineseを用いないので注意))とは、1910年代から1940年代にかけての中華民国ドイツの一連の軍事的・経済的協力関係を指す。独中合作とも。日中戦争直前の中華民国で、産業と軍隊の近代化に役立った。
1912年に中華民国が成立した直後の中国では、軍閥が跋扈し、列強の侵略に苛まれていたが、1928年中国国民党による北伐の完成により一応ながらも国内統一された。しかし、その後満州事変などの日本の進出により、「中華民国による国家統一」が脅かされるようになった。
そのような背景において、軍隊と国防産業の近代化を必要とする中華民国と、資源の安定供給を必要としていたドイツの思惑が一致し、1920年代の終わりから1930年代の終わりにかけて、両国の関係は最高潮に達した。ナチスがドイツを支配するとさらに関係が強化されたが[1]、日独防共協定が締結されると関係は弱められた。中国の近代化に大きな影響を与え、第二次上海事変で成果を発揮した。

中独合作前の中国とドイツの関係
初期の中国(清)‐ドイツ間の貿易は、シベリア経由の陸路を使っていたため、ロシア政府により通過税がかけられていた。そのため、しだいに海上航路を使うようになっていった。始めて清を訪れたドイツ商船は、1750年代プロイセン王国のプロイセン王立アジア会社(Königlich-Preußische Asiatische Compagnie)のものだという。アロー戦争で結ばされた1858年天津条約によって、プロイセンを含んだヨーロッパ各国と中国との貿易が活発化した。

19世紀後半、中国貿易の主導権はイギリスが握っていた。そのため、プロイセン王国宰相のビスマルクは、イギリスに対抗できるような貿易機構を熱望した。1885年、ビスマルクは、清への直行汽船に補助金を出す法案を議会通過させた。同年、ビスマルクは清にドイツ第一銀行と産業調査団を送り込み、1890年にはドイツ・アジア銀行(de)を設立する。これらの努力により、中国の1896年の貿易量はイギリスに次いで第2位となった。
この頃のドイツは、中国に対してイギリスやフランスのように露骨な帝国主義的態度を取っていなかったので、清国政府は ドイツとの協力関係を基にして近代化を進めようと考えた。1880年代、ドイツのフルカン株式会社シュテッティン造船所は、後の日清戦争で活躍する北洋艦隊の旗艦定遠鎮遠を造船している。また1880年代後半、ドイツの兵器関連企業クルップは、旅順の要塞化に協力している。
日清戦争の敗北により、袁世凱はこれまでの洋務運動が間違っていたと考え、自強軍(Zìqiáng Jūn)、及び新建陸軍(Xīnjìan Lùjūn)建設のため、ドイツにさらなる支援を希望した。さらに軍備だけでなく、産業や技術面での支援も希望した。一方で、ドイツの対中国政策は1888年ヴィルヘルム2世が即位すると急変した。ヴィルヘルム2世は帝国主義的な政策を推進し、例えば日清戦争後の1897年、ドイツ人宣教師殺害を口実にして膠州湾に軍を出し、1898年に清朝に山東省膠州湾の99年間の租借を認めさせた。恐らく中独関係が最も冷え込んだのは1900年義和団の乱の際で、ドイツ公使を殺されたヴィルヘルム2世は怒って、遠征軍司令官に対して、反乱軍に対して「フン族の如く容赦ない攻撃を加えよ 」と命令した。(この事件を受けて、第一次世界大戦、第二次世界大戦のドイツ軍はしばしば「フン族」の蔑称で呼ばれた。[1]
この期間、ドイツは中国の法整備にも大きな影響を与えた。清朝が終わる数年前、中国の革命家はドイツ民法を基にした[2]民法草案の作成を始めた。ドイツ民法の骨子は、すでに日本でも採用されていた。この草案は、清朝崩壊前には施行されなかったが、1930年に中華民国民法として施行された。それは現在の台湾民法に引き継がれ、中華人民共和国の現行法にも影響を与えた。1985年に作られた中華人民共和国民法の原則は、ドイツ民法に基づいている[3]
ところが第一次世界大戦の前、中国とドイツの関係は一次的な停滞を見せた。その理由として、1902年日英同盟や、1907年の三国協商(イギリス、フランス、ロシア)により、ドイツが政治的に孤立したことが挙げられる。ドイツはそれに対抗して、1907年にドイツ、中国、アメリカの協商を模索したが、実現しなかった[4]1912年、ドイツは中国の革命政府(中華民国)に600万マルク(en)の資金を提供し、中国に山東省での鉄道敷設を許可した。第一次世界大戦開戦後、ドイツは中国の租借地が日本に渡らないよう膠州湾の返還を申し出たが、それが完了する前に日本は青島と膠州湾に攻撃を仕掛けた。ドイツは極東にまで手が回らず、これに対して何の動きも取れなかった。
1917年8月14日、中国はドイツに対して宣戦布告して漢口天津のドイツ租借地を回復し、そのほかのドイツ租借地の返還を約束させた。しかしながら、パリ講和会議での中国代表団の反対にも関わらず、ヴェルサイユ条約によってこれらの土地は日本に割譲されることが決まった。(中国ではこれを連合国側の裏切りと取る人が多く、後の五四運動へときっかけの一つとなった。)これらの動きにより、第一次世界大戦後の中国-ドイツ間貿易は大きな打撃を受け、1913年に300あったドイツ企業は、1919年には2にまで激減した[5]
 
1920年代の中独合作
ヴェルサイユ条約後のドイツ軍事産業の動向
ヴェルサイユ条約では、ドイツ軍は10万人に制限され、軍需産業は大幅に縮小されたため、ドイツの工業生産は大きく減少した。しかしドイツは軍事先進国として多くの製造会社が一流の軍用品生産技術を持っていたため、「外国に売るため」という条約制限の抜け穴をついて合法的な理由で、海外に合弁会社を設立し、そこで兵器を生産し、ソ連アルゼンチンなどに売却した。このような海外移転案を出したのが、ワイマール共和国国軍(Reichswehr)兵務局長に就任していたハンス・フォン・ゼークトである。ソ連とは1922年にラパッロ条約を締結し、翌1923年には秘密軍事協定を結び、ドイツはソ連の重工業や軍事教育を支援し、ソ連は武器製造などを分担する。なお、ドイツ軍はほかにも、歩兵監リッター・フォン・ミッテルベルガー中将がトルコで軍事指導を、ハンス・クントボリビア軍を指導し、パラグアイとのチャコ戦争において指揮をとるなどしていた。

中国とドイツの接近
袁世凱の死後、中国を支配していた北京政府は崩壊し、政権を狙う軍閥同士で内戦が始まった。そのため、ドイツの兵器メーカーは、中国に武器と軍事支援を提供する商権の拡大を画策した[6]
広州国民党政府もドイツの支援を求め、ドイツで教育を受けた朱家驊1926年から1944年までのドイツとの交渉をほとんど一手に引き受けた。中国が外交相手にドイツを望んだのは、ドイツが技術力を持っていたという以外にもいくつかの理由があった。
イギリスなどの国々は未だ帝国主義的であり、中国国内の反帝国主義運動の主対象となっていたが、これに対してドイツは第一次世界大戦で世界各地の植民地を失い最早帝国主義的政策の推進を諦めていたため、中国人に対する受けがよかった。また、ソ連のように政治に介入し、共産主義者の勢力の伸張を図ろうとしなかったことも理由に挙げられる。
また、国民党蒋介石は、ドイツが近年になって国内統一を果たしたことが、中国再統一の上で大いに参考になると考えていた。このようなことから、中国はドイツが中国の国際的地位の向上を遂げる上で重要な役割を果たすと見なしていた[7]

マックス・バウアー訪中と軍事顧問団の形成
1926年、朱家驊はマックス・バウアーを招いて中国への投資の可能性について会談し、翌年広州を訪れたバウアーに蒋介石の軍事顧問になるよう依頼した。1928年秋、バウアーはドイツに戻り、中国の工業化に協力できる企業と、南京で蒋介石の常任顧問を引き受ける人物を探した。しかし、多くの企業は中国の政局が不安定であるため躊躇し、バウアーも1920年カップ一揆に加わっていたと疑惑をもたれたことや、また、ドイツの中国への直接軍事協力はヴェルサイユ条約に抵触するとの懸念もあり、招致は困難であったが、約30人の将校とともに、マックス・バウアーは中国に戻り、軍事顧問団を形成した[2]。これ以降、ドイツの最新兵器が中国にもたらされる。バウアーの国民政府への関与は、後の中独協力の基礎となる。
バウアーを団長とする軍事顧問団は、直ちに黄埔軍官学校の軍事教練に着手。バウアーは国民革命軍を縮小して少数精鋭部隊へと再編成を行った。翌1929年春には李宗仁らが蒋介石と対立した際には、軍事顧問団は、戦闘の指導を行った[3]。この作戦指導中、バウアーは天然痘にかかり漢口で死去、上海に埋葬された[8]。バウアー没後、ヘルマン・クリーベル中佐が顧問団長を継ぎ、1年五ヶ月間務めた。

1930年代の中独合作
1928年国民政府の蒋介石の北伐の完成により、中国の統一は一応達成された。しかし、中独関係は世界恐慌の煽りを受けて1930年から1932年の間は停滞した[9]。さらに、ドイツの産業界、貿易業、ワイマール共和国のドイツ国軍がめいめいに中国利権を獲得しようとしたため、中国における産業の開発は思うように進まなかった。1931年満州事変で日本が中国軍を一掃し、翌1932年1月3日 には満州を占領。同年1月28日 には第1次上海事変が勃発する。このときドイツ軍事顧問団が指導した第87・88師団が参戦。その後、日本軍が熱河省に侵攻し、万里の長城付近で交戦した際には、ゲオルク・ヴェッツェル中将が中国軍を指揮している[4]
1933年ナチスが政権を取ると、ドイツの対中政策はより具体性を増した。ワイマール政府は中国を含む極東に表立って干渉しないことを原則としていた。しかし、ドイツ国防軍、産業界・商社は、政府の政策が中国貿易の利益を損なうことがないよう希望していた。その後ナチス・ドイツは、挙国一致での戦争経済推進を政策に掲げ、軍需資源の確保、特に中国で産出されるタングステンアンチモンを重視したため、これ以降、ドイツの対中国政策が促進された[10]
 


フォン・ゼークトの軍事顧問団長就任と兵器貿易会社ハプロ設立
1933年5月、ドイツの元陸軍参謀総長ハンス・フォン・ゼークトがヴェッツェル中将の招きで上海に赴き、経済・軍事に関して蒋介石の上級顧問となった。ゼークトは早くも翌6月、経済・軍事推進計画の概説を蒋介石に提出した。その中で、大規模で訓練が行き届かない現状の軍に替えて、小規模で、機動性に富み、装備が整った部隊を整える事を要求し、加えてゼークトは、軍隊は質によってその優劣が決まり、その質の差は将校の質から生じるゆえに、磐石な命令系統が軍隊の骨子を成す、という構想を説いた[11]。ゼークトは、まず第一に、国民革命軍が蒋介石の号令の下に一様に訓練され統治される必要があり、組織をピラミッド型の中央集権構造に変える必要があるとした。これを達成するため、政府が将校団を厳選した、ドイツの「Eliteheer(エリート部隊)」に相当する「模範旅団」を作って、各地の軍団の訓練を担当させれば良いと提案した[12]
またゼークトは「日本一国だけを敵とし、他の国とは親善政策を取ること」とも蒋介石に進言し[5]、「いまもっとも中国がやるべきは、中国軍兵に対して、日本への敵がい心を養うことだ」とも提案した。これをうけて蒋介石は、秘密警察組織である藍衣社による対日敵視政策をとるようになる。
当時国際的に孤立しつつあったドイツからの支援により、他国からの軍事支援を受けることが難しくなったため、中国は国防産業の自給を進める必要があった。産業構造を効率的にするためには、中国の組織を変えるだけではなく、中国内のドイツの各組織を統一化する必要があった。
1934年1月、中国内のドイツ産業を統括する「Handelsgesellschaft für industrielle Produkte」(工業製品営利会社、ハプロ)がベルリンで設立された[13]。設立者は退役大尉で武器商人であったハンス・クラインである。クラインはすでに1933年6月のゼークトが中国をはじめて訪れたときに同行していた。ハプロ設立の目的は、ドイツが国家として中国への干渉を深めている事に対しての外国からの抗議をかわすためでもあった。
同年4月には、ゼークト大将はヴェッツェル中将に代わって軍事顧問団団長に就任。さらに中国軍事委員会の総顧問に就任した[6]。ゼークトは1935年3月に病気で帰国するまでに以下のような軍事改革を行った。

今後三年間にドイツ製武器を装備した二十個師団の形成
教導総隊の創設
中央士官学校、陸軍大学校、化学戦学校、憲兵訓練学校、防空学校などを南京に設立

ハプロ・中国間物資交換条約
1934年8月23日、ハプロと中国との間で、対等条約である「中国稀少資源及びドイツ農業・工業製品交換条約」が調印され、国民政府は、ドイツ製品とその開発支援と交換に中国産の軍需資源の提供を約束した。国民政府は、中国共産党との内戦で軍事費が増大して財政赤字が膨らんでおり、外国からの借款が難しい状況だったので、この物々交換は中国とドイツの双方に利益をもたらした。一方で、ドイツは、軍需資源を中国から確保できるようになったため、国際原料市場に依存する必要がなくなった。
ハプロとこの条約は、中国産業の推進だけではなく、軍制の再編成も促進した。この重要な条約を結んだ後、ゼークトは中国軍事顧問の地位をアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンに譲り、1935年3月にドイツに帰国した。帰国後、ゼークトは、ドイツは中国と協力すべきとヒトラーらナチス高官に進言、ヒトラーやドイツ国立銀行総裁で当時経済大臣であったシャハトらは賛同する。

中独協定と鉄道開発
1936年、中国の鉄道は、かつて孫文が思い描いていた10万マイル(16万キロメートル)とは程遠く、わずか1万マイルに過ぎなかった。さらに、これらの鉄道の半分は満洲にあり、日本が支配していた。中国の輸送の近代化が遅れていたのは、列強の都合によるところが大きい。1920年、イギリス、フランス、アメリカ、日本の銀行による「新四強国際借款団」の取り決めにより、中国への資本投資には制限があった。4カ国が中国に鉄道敷設のための資金を提供する場合には、他国の同意が必要と定められていた。さらには、世界恐慌で各国とも国力が落ちていたため、中国に資金提供することが困難となっていた。
1934年から1936年の間の中独協定は、中国の鉄道建設を大いに進めた。南昌浙江貴州の間に幹線線路が敷設された。揚子江南部の鉱山及び工業地帯を中国沿岸と繋ぐことで、中国とドイツの利害が一致したためこの開発が可能となった。さらにはこれら3つの鉄道は軍事にも活用された。杭州貴陽を結ぶ鉄道は、軍事物資を輸送するため、1937年に上海と南京が陥落した後に作られたものである。一方、東部海岸と武漢地区を結ぶため、広州漢口の間にも鉄道が敷かれた。この鉄道は、後の日中戦争で大いに活用されることになる。

軍事産業三ヵ年計画

中独合作で最も重要なのは、1936年からの軍事産業三ヵ年計画である。それは中国政府の国家資源委員会(en) とハプロ・ドイツ軍によって推進された。この計画の目的は、短期的には日本に対抗できるだけの工業国となることであり、長期的には将来の中国産業を振興させることであった。この計画は、タングステンとアンチモンの独占開発、湖北省湖南省四川省のような地方都市に中央製鉄所、機械工場、発電所、化学工場を建設することなどが骨子となっていた。
1934年の交換条約の取り決めにより、中国はドイツから技術提供を受け、ドイツには稀少原料を提供した。これらの取引は中国の対独貿易赤字となることが多かったが、1932年から1936年にかけてタングステンの価格が2倍に上昇したため、いくらかは緩和された[14]
1936年にはヒトラーは中国に1億マルクの借款を与え、その借款で中国はドイツから武器を購入した[1]。また、10年間にわたり毎年1,000万マルク相当の鉱物資源がドイツに提供されることとなった[1]
1936年1月、南京政府訪独団がドイツを訪れ、2000tのタングステンを提供している。同年4月8日には、独中間で借款貿易協定がむすばれ、ドイツは中国政府に1億マルクの追加融資を行った。推進者は国防省官房長のヴァルター・フォン・ライヒェナウ中将であった[7]。ライヒェナウはクラインらと中国軍備拡張計画を練り、六個師団からなる十万の軍、将来的には30万にまで拡張する新たな軍事顧問団の創設を構想した。ほか沿岸部防衛のため、四隻の高速魚雷艇の輸出(最終的には50隻まで提供)、揚子江防衛のための15㎝砲台と機雷封鎖設備を供給する計画であった[8]。7月には三ヵ年計画を開始、クルップシーメンス[9]による中央鋼鉄廟・兵器工場、化学メーカーIGファルベンによる爆薬研究所、ダイムラー・ベンツによる国有自動車会社などの建設をすすめた[10]
これにより、1931年には中国の貿易額において対ドイツが米日英に次いで5%を占めていたのに対して、1936年には17%を占めるようになり、英国を抜いて日本に並び、3位となった[11]
 


ファルケンハウゼンの対日戦術
1935年1月、ファルケンハウゼンは、中国国防基本方針と題する対日戦略案を蒋介石に提出する。そのなかで、日本が攻撃してきたとしても、日本はソ連対策をとらざるをえず、また中国に利害をもつ英米とも対立すること、そして日本はそのような全面的な国際戦争には耐えられないこと、従って、中国は長期戦に持ち込み、できるだけ多くの外国を介入させることをファルケンハウゼンは提案した[12]。また同年10月1日には、漢口と上海にある租界地の日本軍を奇襲し、主導権を握ることを進言している。ファルケンハウゼンは中国にとっての第一の敵を日本、第二を共産党ととらえていたのである。しかし、蒋介石や何応欽らは当初、第一の敵を共産党とみなしていたため、ファルケンハウゼンの進言に反対した。しかし1936年4月1日にファルケンハウゼンは「欧州で第二次大戦が開始し、英米の手が塞がらないうちに、対日戦争を踏み切るべきだ」とさらに進言した[13]
かつてゼークトの立てた計画はドイツの軍事理論に基づいており、国民革命軍を十分な装備と訓練を受けた60個師団へと縮小させることを要求していた。しかし、軍のどの部門を廃止かが問題となっていた。黄埔軍官学校で訓練された将校達は、各地の元軍閥の将校より優れており、蒋介石の政治的優位を支えるのに役立った[15]。国民革命軍の内、8個師団はドイツ式に訓練されて主力となった。この改革は、蒋介石が廬溝橋事件後に日本に対する徹底抗戦に踏み切る決断の要因のひとつとなった可能性がある。しかし、国民革命軍はまだ強化途中であり日本軍に対抗できるほどの力を持っていなかった。蒋介石は、幕僚とファルケンハウゼンの反対にも関わらず、1937年上海戦に全兵力の3分の1を投入し、貴重な戦力を失った。
ファルケンハウゼンは蒋介石に対し、消耗戦に持ち込んで日本軍を疲弊させることを提案した。それは、黄河の防衛線を守ること、ただし当面の間は黄河北部を攻撃しないこと、そのために山東省を含む中国北部を放棄すること、撤退を急がないことなどから成っていた。さらに、鉱業地帯、海岸、河川に陣地を構築し、ゲリラ作戦を取ることを勧めた。そうすれば、日本が徐々に消耗していくだろうと説明した。ゲリラ戦は、第二次国共合作で提携した共産党の得意技であった。
ファルケンハウゼンは、中国の国民革命軍が日本軍に抵抗できるだけの装備を確保するのは当面は難しいだろうと予想していた。中国の産業は近代化を始めたばかりであり、ドイツ国防軍並の装備をするには時間がかかると考えていた。そのためファルケンハウゼンは、浸透戦術を取り、小型兵器を装備した機動部隊の設立が必要だと論じた。

ドイツの軍事援助は、人材育成と組織整備だけでなく、軍需物資提供に及んでいた。ゼークトの分析によると、中国式兵器の8割は近代戦で使えない代物だった。中独合作の一環として、揚子江沿いにある既存の兵器廠を発展させていく方針が盛り込まれていた。例えば、漢陽兵工廠en) は、1935年から1936年にかけて最新設備に作りかえられた。この工廠で、二四式機関銃8cm迫撃砲の他、マウザーKar98k小銃をモデルとして、蒋介石の名前を取った中正式歩兵銃が作られた。
中正式歩兵銃と漢陽88式歩兵銃は、国民革命軍全軍に配布され、有力な火器として使用された[16]。また別の工場では、ガスマスクの製造と、最終的には中止されたものの、マスタードガスの製造プラントの建設が計画された。1938年5月、湖南省に20mm、37mmおよび75mm砲の生産工場が作られた。1936年後半、南京近郊に双眼鏡、狙撃銃用の照準器等の光学部品工場が作られた。

国民革命軍が購入したハインケル111A
全部で11機購入し、その後中国航空中国語版で民用に供用された

このほかにも、MG34、各種口径の山砲、装甲偵察車Sd Kfz 222などの工場が作られた。軍事研究所もいくつか作られた。兵工廠研究所、イーゲー・ファルベン社指導で作られた化学研究所などである。これらの多くはドイツで教育を受けた中国人技術者により運営された。一方、1935年から1936年にかけて、中国はドイツにM35型シュタールヘルム31万5千個と、Gewehr 88小銃、Gewehr 98小銃、モーゼルC96型拳銃多数を注文した。さらに、少量ではあるが、ヘンシェルHs 123や、ユンカースハインケルフォッケウルフの航空機を購入し、一部は中国国内で組み立てている。さらに、ラインメタルクルップから3.7 cm PaK 3615cm sFH 18などの榴弾砲対戦車砲山砲、さらにはI号戦車などの装甲戦闘車両を購入した。
これらの近代化は直後の日中戦争で効果を発揮し、殊にドイツの支援で上海一帯に構築された陣地の攻略などで日本軍は予想以上の犠牲を払うこととなった。国民革命軍は多くの主要都市の占領を許したが、士気は高まった。一方で、日本軍は国民政府が遷都した重慶をついに攻略することはできなかった。

日独防共協定
1937年5月には軍事顧問団は100名を超えるまで膨れ上がり、ナチス政権発足前の1928年の30名から大きく増加していた[14]。ヒトラーの外交政策が変更され日独防共協定が締結されると、中国とドイツの関係は弱められていった。ヒトラーは、ソ連のボリシェヴィキ主義に対抗するには日本の方が頼りになると考え、同盟国に日本を選んだ[17]
さらに中国が1937年8月21日に結んだ中ソ不可侵条約によりヒトラーの態度は硬化し、中国系ロビイストやドイツ人投資家から執拗な抗議を受けても変わらなかった。ヒトラーは、中国からの既に注文済みの品の輸出の妨害こそしなかったものの、以後新たな対中輸出が認められることはなかった。
ドイツは在華大使トラウトマンを介して、中国と日本の和平交渉を仲介しようとしたが、1937年12月に南京が陥落してからは、両国が納得できるような和解勧告をすることはできず、ドイツ仲介による休戦の可能性は全く失われた。1938年前半に、ドイツは満州国を正式に承認した。その年の4月、ヘルマン・ゲーリングにより、中国への軍需物資の輸出が禁止された。さらに同5月、日本の要請を聞き入れ、ドイツは顧問団を中国から引き上げた。
ドイツが親交国を中国から日本に切り替えたことは、ドイツの経済界を失望させた。中国との交易に比べれば、日本と満洲国から得られる経済効果ははるかに小さかったためである。また、中国在住のドイツ人のほとんどは、国民政府を支持した。例えば、漢口のドイツ人は現地の赤十字に対し、中国人と他の外国人からの合計以上の寄付を行っていた。ドイツの軍事顧問達は、国民政府に同情的だった。ファルケンハウゼンは、1938年6月末日に退去を命じられていたが、蒋介石に対して、日本に味方することだけはないと断言した。その一方で、ナチス幹部達は、日本を中国で勃興する共産主義に対する最後の防波堤と位置づけていた。


実際にも、ドイツが日本と手を組んだことは、必ずしも成功とは言えなかった。日本が北中国及び満洲国の権益を独占したため、中国におけるドイツの権益は他国並みにまで落ち込んだ[18]1938年中ごろ、これらの経済問題が未解決なまま、ヒトラーはソ連と独ソ不可侵条約を締結し、1936年に締結された日独防共協定が事実上無効となった。ソ連は満州国の物資をドイツに送るのにシベリア鉄道の利用を認めたが、当初からその量は少なく、ソ連、ドイツ、日本の交流が浅いためにさらに減少することになった。1941年、ドイツがソ連に宣戦布告すると、ドイツとアジアの経済交流は完全に無くなった[19]

中国とドイツの交流再開は1941年までは模索されていた。しかし、ドイツが1940年バトル・オブ・ブリテンでイギリスを攻めあぐねているうちに、ヒトラーの興味を奪ってしまった[20]。ドイツはその年の終わりに日独伊三国軍事同盟を締結した。それを受けてドイツは1941年7月、重慶に移っていた国民政府と手を切り、南京汪兆銘政権を中国の公式政府として承認した。太平洋戦争の勃発を契機にして、中国は連合国の一員として1941年12月9日にドイツに宣戦布告した。

後世への影響
1930年代の中独合作は、孫文が理想とした「中国の国際化」において最も成功したものだった。その関係は短期間で終わったが、国民党政府が国共内戦に敗れて台湾に撤退した後に関係が再開した。台湾(中華民国)の政府高官や大臣の多くがドイツで教育を受け、その他にも学者や蒋介石の息子蒋緯国のような軍当局者の多くがドイツで学んだ。戦後、台湾が急速な産業発展を遂げたのは、1936年からの三ヵ年計画のひとつの成果ともいえる。中国とナチス・ドイツのこの緊密な協力関係は、中国側の歴史資料では殆ど扱われていない。理由を北村稔氏は、「『日本のファシズム』を抗日戦争により打倒したと主張する国民党には、『日本のファシズム』の盟友で『歴史の罪人』となったナチス・ドイツとの親密な関係は、第二次大戦後には『触れてはいけない過去』になった」からだと、解説する。

最終更新 2013年10月26日

Long March

Long March

The Long March (1/10)


公開日: 2013/07/10
A US-produced documentary that looks at the epic story of the Long March, placing it in the context of the Chinese Revolution. Part 1 of 10.

For more information on the Chinese Revolution, visit Alpha History's comprehensive educational website at http://alphahistory.com/chineserevolu...


The Long March (2/10)





The Long March (3/10)  






The Long March (4/10)




The Long March (5/10)





The Long March (6/10)




The Long March (7/10)





The Long March (8/10)




The Long March (9/10)




The Long March (10/10)

毛沢東

毛沢東

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ファイル:Mao Zedong portrait.jpg



毛 沢東(もう たくとう、マオ・ツォートン、1893年12月26日 - 1976年9月9日)は、中華人民共和国政治家軍事戦略家思想家は詠芝、潤芝、潤之。筆名は子任。初代中華人民共和国主席中国共産党の創立党員の1人で、長征日中戦争を経て党内の指導権を獲得し、1945年より中国共産党中央委員会主席を務めた。日中戦争後の国共内戦では蒋介石率いる中華民国台湾に追いやり、中華人民共和国を建国した。以後、死去するまで同国の最高指導者の地位にあった。
現代世界史において大きな業績を遺した人物とみなされており[3]タイム誌の「20世紀の重要人物(Time 100: The Most Important People of the Century)」の1人に名を連ねている[4]。毛は、思想家、戦略家として評価されており、詩人としても名高い[5]


一方、毛の政策については現在でも議論の対象となっている。研究者は、毛の引き起こした大躍進政策文化大革命のような、文化、社会、経済外交に重大な損害をもたらした問題について非難するとともに、彼の政策による犠牲者を数千万と推定する[6]。そして、マルクス主義ソ連型社会主義を中国社会に導入しようとした毛の政策は、産業の面において、結局失敗に終わったと論じる[6]
 

1893年湖南省湘潭県韶山村にて、父・毛貽昌、母・文素勤の5人兄弟の三男として生まれる。ただし、長男と次男は夭逝したため、事実上の長男扱いであった。
毛沢東はその才覚で地主までなりあがった厳格な父によって、子供のうちから労働に従事させられつつ、勉学にも励んだ。1907年、14歳で羅一秀と最初の結婚をするも、1910年、年上の妻は赤痢のため、わずか20歳で死去した。

従兄から贈られた中国近代化を説く本に刺激を受けた毛沢東は、1910年秋、故郷の韶山を離れ、湘郷県立東山高等小学校に入学。この学校では康有為梁啓超らの思想を学び、影響を受けた。1911年春、毛は長沙に赴き、湘郷駐省中学への入学を希望した。この年に勃発した辛亥革命では、湖南の革命志願軍に入隊する。半年後、清朝が事実上崩壊したことにより、毛は軍を除隊して学校へ戻った[7]。1912年、長沙の湖南全省公立高等中学校(現在の長沙市第一中学)に入学。中学入学の際に明治維新に関心を持っていた毛は、父に幕末の僧月性の詩「将東遊題壁」を贈り、意気込みを示した。


將東遊題壁 釋月性
男兒立志出郷關 男児 志を立てて 郷関を出づ
學若無成不復還 学 もし成るなくんば 復還らず
埋骨何期墳墓地 骨を埋むるに 何ぞ墳墓の地を 期せんや
人間到處有靑山 人間 到るところ青山あり
釈月性 将東遊題壁[8] 「碇豊長の詩詞 詩詞世界[9]」日本漢詩選


1913年春、湖南省立第四師範学校に入学し、さらに翌年秋、湖南省立第一師範学校に編入した。いくつかの学校を転々とする間、毛沢東はアダム・スミスシャルル・ド・モンテスキューなどの社会科学系の書物に触れた。
1917年孫文の同志だったアジア主義者宮崎滔天が毛沢東の故郷の湖南省を訪れ、講演を行った。毛はこの講演会に出席し、日本が欧米白人のアジア支配を打破したことを聞いて喜んだ。後に毛沢東は米国記者エドガー・スノー日露戦争当時の日本の歌詞を紹介し、次のように告白している(なお左記に紹介する詩が、日露戦争時のものであるかについては諸説ある)。

「雀は歌い 鶯は踊る 春の緑の野は美しい ざくろの花は紅にそまり 柳は青葉にみち 新しい絵巻になる」
当時わたしは日本の美を知り、感じとり、このロシアに対する勝利の歌に日本の誇りと力を感じたのです[10]

師範学校在学中、新文化運動に影響を受けた毛は、1918年4月、学友たちとともに新民学会を創立して政治活動に加わるようになった。

1918年夏、湖南省立第一師範学校を卒業。1919年五・四運動期に、教授で恩師の楊昌済(のち、義理の父親となる)とともに中華民国北京政府の首都である北京へ上京する。楊の推薦により、北京大学図書館にて館長の李大釗とともに司書補として勤めるかたわら、『新青年』の熱心な寄稿者となる。毛は同大学の聴講生として登録し、陳独秀胡適、そして銭玄同のような知識人たちといくつかの講義やセミナーに出席した。上海に滞在中の毛は、共産主義理論を取り入れるためにできる限り読書に勤しんだ。

1919年、帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。この頃、新式学校の設立を計画したり陳独秀李大釗と会ったりしており、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。同年、楊の娘で学友の楊開慧と結婚し、岸英岸青岸龍の男子3人をもうけた。なお、第一次国共合作が破れ、中国共産党と中国国民党の戦いが激しさを増していた1930年10月、蒋介石率いる国民党軍は楊開慧と岸英・岸青を捕えた(岸龍はすでに死亡)。楊開慧は殺害され、その後、息子たちは親類に送り返されている。

中国共産党創立
1921年7月23日、毛沢東は第1回中国共産党全国代表大会党大会)に出席する。1923年6月、第3回党大会で中央執行委員会(現在の中央委員会)の委員5人のうちの1人に選ばれた。この第3回党大会では、コミンテルンの指導の下、「国共合作」の方針が決議された。9月、毛は、共産党中央執行委員会の指示と国民党の委託を受けて長沙に赴き、国民党の湖南支部を組織した[11]1924年1月、第1回国民党全国代表大会に出席し、国民党中央執行委員会の候補委員に選出された。同年、毛は国民党上海支部の幹部(組織部書記)となった。毛は指導者の地位を生かして労働組合オルグに力を注ぐ。毛はしばらくの間、共産党が革命の重要な都市として重視した上海に残った。しかしながら、党は労働組合運動を組織し、民族主義の同盟国との関係を築くという大きな難題に遭遇した。党は困窮し、毛は革命に幻滅を感じて韶山に戻ってきた。自宅にいる間の1925年に上海と広州で発生した暴動を聞いたことで、毛の関心は蘇った。毛の政治的野心は蘇り、第2回国民党全国代表大会の議会の準備に参加するため、国民党の本部がある広東へ向かった。1925年10月、毛は国民党中央宣伝部長代行となった。

1926年12月に長沙で開かれた労働者と農民の代表大会に出席するために湖南省に戻っていた毛沢東は、翌年1月から2月にかけて、湖南省における農民運動の報告書を作成した。これは「農民に依拠し、農村を革命根拠地とする」という毛の革命理論の構築の初期段階と考えられている[12]
毛沢東は国共合作において重要な役割を果たしていたが、1927年4月12日上海クーデターで国共合作は崩壊した。その直後の4月27日から5月10日にかけて開催された第5回党大会で毛は中央委員会候補委員に選出された。8月7日漢口において開催された党中央緊急会議(「八七会議」)において、毛は「武力で政権を打ち立てる(槍杆子里面出政権)」方針を提案、国民党との武装闘争が党の方針として決議された。さらに毛は臨時中央政治局候補委員に選出された。「八七会議」の決議を受けた毛は、9月9日、湖南省で武装蜂起するも失敗(秋収起義)、配下の農民兵とともに孤立し、家族とも離れて湖南省と江西省の境にある井崗山に立てこもることになった。なおこの根拠地に潜伏中、江西省出身の女性・賀子珍と暮らすようになり[13]1929年には長女が誕生している。1927年11月、上海の党臨時中央政治局は拡大会議を開き、毛は会議に欠席のまま政治局候補委員から解任された。1928年7月、第6回党大会において中央委員に選出。
井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、1929年から1931年にかけて、湖南省・江西省・福建省浙江省の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。毛沢東は江西省瑞金に建設された中央革命根拠地である「江西ソビエト」に移り、1931年11月、瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となった。しかし、江西ソビエトを始めとする中国共産党の根拠地は国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。国民党軍による包囲に対して、毛や朱徳など前線司令部は「敵の先鋒を避け、戦機を窺い、その後に兵力を集中して敵軍を各個撃破する」というゲリラ作戦をたてたが、上海にある党臨時中央政治局は、積極的に出撃して敵の主力を攻撃し、国民党軍による包囲を粉砕することを前線に求めてきた[14]。毛の作戦はソ連留学組中心だった党指導部によって批判され、1932年10月、毛は軍の指揮権を失った。また、毛が推進していた「土地革命」も批判の対象となり、中止に追い込まれた。さらに1933年1月、中国共産党の本部が上海から瑞金に移転し、党指導部が毛に代わって中央革命根拠地における主導権を掌握した。毛は1934年1月の第6期党中央委員会第5回全体会議(第6期5中全会)で中央政治局委員に選出されたものの、実権を持つことはなかった。

国民党軍の度重なる攻撃によって根拠地を維持できなくなった紅軍は、1934年10月18日、ついに江西ソビエトを放棄して敗走、いわゆる「長征」を開始する。この最中の1935年1月15日に、貴州省遵義で開かれた中国共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で、博古らソ連留学組中心の党指導部は軍事指導の失敗を批判されて失脚し、新たに周恩来を最高軍事指導者、張聞天を党中央の総責任者とする新指導部が発足した。毛沢東は中央書記処書記(現在の中央政治局常務委員)に選出されて新指導部の一員となり、周恩来の補佐役となった。しかし、毛沢東は周恩来から実権を奪っていき、8月19日、中央書記処の決定により、毛沢東は周恩来に代わって軍事上の最高指導者の地位に就いた。1936年秋には陝西省延安に根拠地を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示し、消耗を防ぎながら抵抗活動を続ける。同年12月7日、朱徳に代わって中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会(紅軍の指導機関)主席に就任して正式に軍権を掌握。5日後の12月12日に西安で起きた張学良楊虎城らによる蒋介石監禁事件(西安事件)で、コミンテルンの仲介により宿敵である蒋介石と手を結び、第二次国共合作を構築。翌年、中華ソビエト共和国は「中華民国陝甘寧辺区政府」に、紅軍は「国民革命軍第八路軍(八路軍)」に改組された。中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会も中国共産党中央革命軍事委員会(現在の中国共産党中央軍事委員会)に改組され、毛沢東は改めてその主席に就任した。
1937年7月7日に始まった日中戦争では抗日戦線を展開、国民党軍とともに、アメリカソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助を元に日本軍と対峙する。しかし、日中戦争において日本軍と交戦したのは主に国民党軍であった。共産党側は、朱徳率いる八路軍が日本軍へのゲリラ戦を行う以外は日本軍と国民党軍の交戦を傍観し、戦力を温存して、共産党支配地域の拡大に傾注したのである。この時期、毛沢東は「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」という指令を発している[15]。なお毛がまとめた『持久戦論』では日本軍の戦略を「包囲は多いが殲滅が少ない」と批判している。

1938年には長征時代の妻・賀子珍と離婚し、不倫の上で上海の元女優・江青と結婚した。1940年には『新民主主義論』を著して新たな中国の国家・社会論を示し、中国共産党を中心とする未来の政権構想・社会建設構想を表明した。
遵義会議以降、党の実権を掌握していった毛沢東だったが、1942年からの整風運動によって党内の反毛沢東派を粛清していき、党内の支配権を確実なものとした。1943年にはソ連留学組だった中央書記処総書記の張聞天を排除し、同年3月20日、中央政治局主席兼中央書記処主席(事実上の党主席)に就任して党の最終決定権を獲得した。1945年、第7回党大会で毛沢東思想が党規約に指導理念として加えられ、6月19日の第7期1中全会において、毛沢東は党の最高職である中央委員会主席に就任した。

第二次国共内戦

日中戦争末期の1945年5月、中国国民党は第6回全国代表大会を開催し、孫文が提唱した革命の第3段階である「憲政」に入ることを示した。そして、「憲政」が国民党主導の国民大会によって実施されるという構想を明らかにした。一方、毛沢東は同時期に開催されていた中国共産党第7回党大会で『連合政府論』を提唱し、国民党案に不同意を表明した。日中戦争当時、共産党と国民党は表面上協調関係を結び、毛沢東も蒋介石の権威に従っていたが、戦争終結を目前にして、毛沢東は「蒋介石と対等な指導者」としての立場をめざし、共産党と国民党の対立は深刻になっていった。終戦直前の8月13日、毛沢東は蒋介石との武力闘争を内部指示として発した。

1945年、重慶会談における毛沢東(右)と蒋介石(中央)
1945年8月14日、日本はポツダム宣言受諾を連合国側に通告、8月15日に終戦を迎えた。8月30日、蒋介石と毛沢東は重慶で会談し、国共和平・統一について議論を重ねた。議論は長引き、10月10日に「双十協定」としてまとめられた。「双十協定」では、国民党が「政治の民主化」「各党派間の平等性や合法性」などを約し、共産党も「蒋介石の指導」「国民党の指導下での統一国家の建設」を承認するなど、内戦回避と統一政権樹立について両党が努力することが確認された。
しかし、「双十協定」が調印されたその日、山西省南部で上党戦役が勃発し、共産党軍と国民党軍が交戦、共産党軍が国民党軍に大きな打撃を加えた。また、この年の末には、降伏した日本軍の接収・管理のために国民党軍が東北地方に派遣されると、共産党も林彪率いる東北民主連合軍を派遣し、緊張関係が生じた。
1946年1月、「双十協定」に基づき、政治協商会議(党派間の協議機関)が重慶で開催された。各党派の代表構成は、国民党が8、共産党が7、その他の政党・無党派が23であった。この会議では憲法改正案・政府組織案・国民大会案・平和建国綱領などが採択され、国民政府委員会(政府最高機関)の委員の半数が国民党以外に割りあてられるなど、国民党は共産党を初めとする諸党派に対して一定の譲歩を示した。しかし、3月の党大会において、国民党は共産党が提唱する「民主連合政府」の拒否と国民党の指導権の強化を決議した。6月26日、蒋介石は国民革命軍(中華民国の正規軍。実質的には国民党軍)に対して共産党支配地区への全面侵攻を命令、国共内戦が始まった。

国共内戦が起きると、毛沢東は、地主の土地を没収し農民に分配する「土地革命」を再開し、農民の支持を獲得していった[16]
国共内戦では「全面侵攻」を進める蒋介石に対して毛沢東はゲリラ戦を展開した。1947年3月28日、毛は党中央の所在地である延安の放棄を決定、国民党軍を山岳地帯に誘い込み、国民党の戦力消耗を図った。内戦当初優勢だった国民党軍はこの頃より勢いに陰りを見せ始めた。毛沢東率いる中国人民解放軍(1947年9月、八路軍から改称)はソビエト連邦からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗によって軍事支援を削減された国民党軍に対して大規模な反撃に出た。1948年9月から1949年1月にかけて展開された「三大戦役」[17]において人民解放軍は勝利を重ね、国民党軍に大打撃を与えた。1949年1月、人民解放軍は北平(北京)に入城し、4月23日には国民政府の根拠地・首都南京を制圧した。
毛沢東は1949年3月の第7期2中全会において、新政治協商会議の開催と民主連合政府の樹立を各界によびかけた。かくして、9月21日から9月30日にかけて北京に全国の著名な有識者や諸党派の代表が集まり、中国人民政治協商会議が開催された。この会議では新国家の臨時憲法となる「中国人民政治協商会議共同綱領」が採択され、新国家の国号を「中華人民共和国」とし、毛沢東が中央人民政府主席に就任することが決議された。

中華人民共和国建国
1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言した。しかし、この段階では国共内戦は終息しておらず、11月30日に重慶を陥落させて蒋介石率いる国民党政府を台湾島に追いやったものの、1950年6月まで小規模な戦いが継続した。
中華人民共和国の臨時憲法である「中国人民政治協商会議共同綱領」は、中華人民共和国が「人民民主主義(新民主主義)国家」であるとした。そして、国家の目標として「新民主主義社会」の建設を掲げ、「共産党の指導」や「社会主義」といった文言は一切盛り込んでいなかった[18]。つまり、建国の段階では中華人民共和国は中国共産党がめざす「社会主義国家」ではなかった。事実、国家元首である中央人民政府主席には毛沢東が、首相である政務院総理には周恩来が就任したものの、中央人民政府副主席6名のうち半数は非共産党員であり、副総理・閣僚級ポストのおよそ半数も非共産党員が占めた。

とはいえ、毛沢東は社会主義を「将来の目標」としており、ソ連との関係強化を図っている。建国直前の1949年7月には「向ソ一辺倒」を宣言し、建国まもない1949年12月から1950年2月にかけてソ連を訪問してヨシフ・スターリンの70歳の誕生日を祝い、中ソ友好同盟相互援助条約を締結するなどして、ソ連の援助を引き出した。その後に勃発した朝鮮戦争では、ソビエト連邦とともに北朝鮮を支持して中国人民志願軍を派遣。この戦争で、毛は長男の岸英を国連軍の一国であるアメリカ空軍の爆撃で失った。

朝鮮戦争が勃発する直前の1950年6月20日、毛沢東は「中華人民共和国土地改革法」を公布した。これは、かつて中国共産党が支配地域で実施していた「土地革命」を、全国の未実施地域で行おうとするものであった。ただし、この法律は従来の「土地革命」とは異なり、「富農経済の保護」を打ち出し、「穏健で秩序ある」改革をめざすものであった[19]。この改革によって、各種の農業生産高は一気に増大した[20]。なお、同時期の工業は、農業以上に生産の伸長が著しかった。毛はまた、1951年末から汚職・浪費・官僚主義に反対する「三反運動」を、1952年初から贈賄・脱税・国家資材の横領と手抜き・材料のごまかし・経済情報の窃盗に反対する「五反運動」を展開した。「三反運動」は行政組織のスリム化と透明化をめざすものであったが、「五反運動」は事実上民族資本家や金融関係者が対象となり、商工業者に深刻な打撃を与えた[21]

独裁化
建国当初、新民主主義社会の建設を目標に、「穏健で秩序ある」改革を進めていた毛沢東は、1952年9月24日、突如として社会主義への移行を表明した。1950年の全国政治協商会議第2回会議で社会主義への移行は「かなり遠い将来のこと」と発言していた毛が、急進的に社会主義を導入しようと方針転換したことは、周恩来や劉少奇など多くの指導者を困惑させた。しかし毛は1953年1月よりソ連型社会主義をモデルとした第一次五カ年計画をスタートさせ、農業の集団化などの社会主義化政策を推進していった。
毛沢東は中華人民共和国を新民主主義国家から社会主義国家に変貌させるために、国家機構の改造にも着手した。1954年9月、全国政治協商会議に代わる最高権力機関として全国人民代表大会が設置され、9月20日に全人代第1回会議において中華人民共和国憲法が正式に制定された。この憲法では、毛沢東が提唱する社会主義への過渡期論が盛り込まれ、国家の目標として社会主義社会の実現が明記された。9月27日、毛沢東は憲法に基づいて新たに設置された国家主席に就任した。なお、首相である国務院総理には周恩来が改めて就任し、全人代常務委員長に劉少奇、国家副主席には朱徳が任命された。また、国務院副総理10名すべてが共産党員であり、全人代副委員長や国務院の閣僚クラスにおける非共産党員の割合が大幅に減少するなど、国家の要職は中国共産党が独占した。


国家主席に就任した毛沢東は、自己に対する反対勢力を粛清していく。1956年2月にソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフが行ったスターリン批判に衝撃を受けた毛沢東は、中国共産党に対する党外からの積極的批判を歓迎するという「百花斉放百家争鳴」運動を展開した。しかし、多くの知識人から共産党の独裁化を批判されると、毛はこれを弾圧するために1957年6月に反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄した。

反右派闘争によって共産党に批判的な知識人層の排除に成功した毛沢東は、急進的社会主義建設路線の完成をめざした。毛は「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標として、1958年大躍進政策を発動。大量の鉄増産のため、農村での人海戦術に頼る「土法高炉」と呼ばれる原始的な製造法による小規模分散生産を採用し、量のみを重視し質は全く度外視したため、使い物にならない鉄くずが大量に生産された。農村では「人民公社」が組織されたが、かえって農民の生産意欲を奪い、無謀な生産目標に対して実際よりも水増しされた報告書が中央に回るだけの結果になった。こういったことから大躍進政策は失敗し、発動されてから数年で2000万人から5000万人以上の餓死者を出した。

このことで「世界三大大量殺戮者」として、ドイツアドルフ・ヒトラーやソ連のスターリンと共に揶揄されることとなった。この失敗以降、毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない独裁的な傾向が強くなっていく。

中ソ対立
スターリン批判や対米政策をめぐって毛沢東はソ連共産党第一書記のフルシチョフと不仲となり、1950年代後半から中ソ対立が深刻化していった。1960年には中華人民共和国に派遣されていたソ連の技術者全員が引き上げたほか、1962年キューバ危機では、中華人民共和国政府はソビエト政府の対応を公式に非難した。さらに1963年からは中国共産党とソ連共産党の公開論争が開始されてイデオロギー面の対立も深まるなど、かつて蜜月であった中ソ関係は一気に冷え込むこととなった。
 
文化大革命
 
  詳細は「文化大革命」を参照

大躍進政策の失敗は毛沢東の権威を傷つけた。1959年4月27日、毛沢東は大躍進政策の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなった。同年7月から8月にかけて江西省廬山で開催された党中央政治局拡大会議(廬山会議)では、毛と同郷であった国防部長(大臣)の彭徳懐から大躍進政策の見直しを迫られた。毛は彭徳懐とその支持者を「右翼日和見主義反党軍事集団」というレッテルを貼って粛清した。廬山会議以降、毛はさらに強硬的になって大躍進政策を推進しようとしたが、飢餓が全土に拡大して餓死者がますます増加していき、ついに毛は1962年1月に開催された「七千人大会」において大躍進政策に対する自己批判をせざるを得ない状況にまで追い込まれた。この大会を機に政治の実権は劉少奇-鄧小平ラインに移ることとなり、毛沢東の権力は大きく低下した。劉少奇や鄧小平が経済調整に乗り出し、農業集団化を見直した結果、農村の飢餓状態が改善されると、党・国家機構における毛沢東の威信はますます減退していった。しかし、彭徳懐に代わって国防部長となった林彪によって1964年に『毛沢東語録』が出版されるなど、大衆に対する毛沢東への神格化は着実に進められ、毛沢東は密かに奪権の機会をうかがっていた。
1965年11月、歴史学者で北京市副市長でもあった呉晗が執筆した京劇戯曲『海瑞罷官』を批判した姚文元の「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」の論文が上海の新聞『文匯報(ぶんわいほう)』に掲載、これが端緒となり、1966年5月北京大学に反革命批判の大字報(壁新聞)が貼り出され、大学などの教育機関や文化機関を中心に、党・国家機関に対する「造反」が起こった。過激派となった青少年は「紅衛兵」と称して、各地で暴動を引き起こした。毛沢東は過激派青年たちの暴力行為に対し「造反有理(謀反には理由がある)」として積極的に支持した。8月5日、毛は「司令部を砲撃せよ ― 私の大字報」と題する指示を『光明日報』に発表し、劉少奇打倒を示唆した。8月18日には、自ら天安門広場に赴き、100万名の紅衛兵を謁見して彼らを煽動、「四旧打破」のスローガンを打ち立てた。紅衛兵運動は全国の学生ら、青年層に拡大した。
このようにして、劉少奇・鄧小平らを実権派(経済政策の調整・柔軟化を唱える党員は、「走資派」というレッテルを貼られた)・修正主義者(「スターリン批判」をきっかけに個人崇拝を厳しく戒め始めた当時のソ連共産党・フルシチョフ路線に倣い、毛沢東に対する個人崇拝の見直しと、代替権力として党官僚の強化を唱えた党員をこう呼称した)として糾弾する広汎な暴力的大衆運動、すなわち「プロレタリア文化大革命(文革)」への流れが決定付けられた。この頃個人崇拝の対象に祭り上げられた毛は「偉大的導師、偉大的領袖、偉大的統帥、偉大的舵手、万歳、万歳、万万歳」と称えられていた。

文化大革命では紅衛兵による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇(1968年に失脚)ら中央指導部、教師ら「知識人」、中国国民党と少しでも関わりのあった者まで及んだ。彼らの家族までも紅衛兵によって徹底的に迫害された。また、紅衛兵運動は文化財を破壊するなどの極端な「左」傾偏向主義運動に発展した。文化大革命による犠牲者の合計数は数百万から数千万とも言われている。この流れのなか、毛沢東の奪権目標であった劉少奇・鄧小平らの「実権派」は次々と打倒されたが、紅衛兵組織は互いに抗争を始め、毛沢東ですら統制不可能な状況に陥った。これを受けて1968年、毛沢東は学生たちの農村への下放を指示した。
文化大革命が発動されて以来、毛沢東の下で実権を掌握したのは党副主席兼国防部長の林彪と毛の妻で党中央政治局委員の江青らであった。とりわけ林彪は毛沢東の後継者とされたが、その後毛と対立し、1971年にクーデターを計画したが失敗。林彪は亡命しようとしたが、搭乗した空軍機がモンゴル領内で墜落し、死亡した(林彪事件)。林彪失脚後、毛は人材難から鄧小平らかつて失脚した者を政権内に呼び戻しポストを与えた。

米中接近と日中国交締結
毛沢東が世界に注目された最後の事件は1972年2月18日、北京において行われたアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンとの会談である。この日、すでに椅子から立つのにも苦労するほど健康状態が悪化していたにもかかわらず、毛沢東はニクソンと握手し、同盟各国の頭越しに首脳会談による関係改善を成し遂げた。これに先立つニクソンの訪中予告は全世界の驚愕を呼び起こし、金ドル交換停止とともにニクソン・ショックとも呼ばれた。ただし、米中が国交を樹立するのは毛沢東の死後、1979年になってからである。
なお、この米中接近は冷戦下でソ連を牽制する必要があるアメリカと、同じく珍宝島事件(ダマンスキー島事件)などでソ連との関係が悪化していた中華人民共和国双方の思惑が一致したものであった。「将来的に、資本主義国のアメリカは衰退し、社会主義体制によって発展するソ連こそが最大の脅威となるであろう」と毛沢東は予測していた。
その後、1972年にアメリカの同盟国である日本の内閣総理大臣田中角栄もニクソンのあとを追うように訪中して首脳会談を行い、国交を樹立(「正常化」)する。毛沢東が田中と面会したのはわずかな時間であったが、毛沢東は単に訪中しただけでなく、一気に国交を結ぶまでに進めた田中の決断力を「ニクソン以上のもの」と評価していたといわれる。なお中華人民共和国も中華民国も二重承認を認めないため、日本はこれまで国交を結んでいた中華民国との国交を断絶した。


死去
ニクソンとの会見後に毛沢東が筋萎縮性側索硬化症に罹患していることが判明した。医師団が懸命の治療を行ったが、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛の体力を奪っていった。1975年には白内障も悪化し、8月に右目の手術をして視力は回復したものの、秋には肺気腫から心臓病を引き起こして深刻な状況となった。毛が最高幹部に直接指示を与えることはほとんどなくなり、甥の毛遠新を連絡員として病床から指示を発するのみとなった。
毛沢東の体調悪化と時を同じくして、文化大革命による混乱の収拾と国家行政の再建に尽力していた国務院総理の周恩来も膀胱癌が悪化して病床を離れられなくなった。毛は周恩来の補佐として、1973年に鄧小平を復活させ、1974年には鄧を国務院常務副総理(第一副首相)に任命した。さらに、鄧小平は病床の周恩来に代わり、1975年1月より党と国家の日常業務を主宰するようになった。鄧小平は文革路線からの脱却を図ろうとしたが、文革を推進してきた江青ら四人組は反発し、周恩来・鄧小平批判を繰り返した。毛沢東の連絡員となった毛遠新は四人組のシンパであり、病床にあった毛沢東に対して鄧小平批判を伝えていた。毛沢東も文革を否定する鄧小平を批判するようになった。1976年1月8日の周恩来死去をきっかけに、同年4月5日第一次天安門事件が発生すると、毛は鄧小平を再度失脚させた。
周恩来、朱徳(1976年7月6日没)と、「革命の元勲」が立て続けにこの世を去るなか、1976年9月9日0時10分、北京の中南海にある自宅において、毛沢東は82歳で死去した。
毛沢東の死の直後に腹心の江青、張春橋、姚文元、王洪文の四人組は逮捕・投獄され、文化大革命は事実上終結した。遺体は現在、北京市内の天安門広場にある毛主席紀念堂内に安置され、永久保存、一般公開されている。

文化大革命の清算
毛沢東の死去後、江青ら四人組を逮捕・失脚させて党主席に就任した華国鋒は「二つのすべて」(毛沢東の指示は全て守る)の方針を打ち出した。これは文革路線を継続させ、毛沢東の指示によって地位剥奪された人々を復権させないことを意味した。
鄧小平はこれに対して「毛主席の言葉を一言一句墨守することは、毛沢東思想の根幹である“実事求是”に反する」との論法で真っ向から反駁した。党と軍の大勢は鄧小平を支持し、その後鄧小平が党と軍を掌握した。華国鋒は失脚して実権を失い、「二つのすべて」は否定され、毛沢東の言葉が絶対化された時代は終わった。また党主席のポストが廃止され、存命指導者への崇敬も抑制され、毛沢東のような絶対的個人指導者を戴くシステムの否定が印象付けられた[22]
毛沢東思想として知られる彼の共産主義思想は、海外、特にインド以東のアジアラテンアメリカの共産主義者にも影響を与えた。内政においては、大躍進政策の失敗や文化大革命を引き起こしたことにより数千万とも言われる大多数の死者を出し、国力を低下させたが、「中華人民共和国を建国した貢献は大きい」として、その影響力は未だ根強く残っている。しかし文化大革命で失脚したうえに迫害された鄧小平らの旧「実権派」が党と政府を掌握した状況下で、大躍進政策や文化大革命は「功績第一、誤り第二」である毛沢東の失敗とされた。

現代中国社会と毛沢東
毛沢東の評価については毀誉褒貶があるものの、毛沢東の尊厳を冒すような行為は許されないというのが、現在の中国国内における一般認識である。例えば1989年第二次天安門事件直前の天安門前広場での民主化デモのさなかに、一参加学生が毛沢東の肖像画に向かってペンキを投げつけたところ、ただちに周囲の民主派学生らに取り押さえられ、「毛主席万歳!」の声が沸き起こったと報道された。
一般に文革を経験した世代は毛沢東を手放しで賞賛することは少ないが、直接文革を経験していない若い世代はそれほど警戒的ではないとされる。第二次天安門事件の後、生誕100周年に当たる1993年前後に毛沢東ブームが起こったのをはじめ、関連商品などが何度か流行したこともある。
毛沢東の死後、中国は改革開放によって経済が発展する一方、所得格差の拡大や党幹部・官僚の腐敗といった社会矛盾が顕著になっていった。かような状況の下、困窮に苦しむ人々が「毛沢東は平等社会を目指した」と信じ、毛の肖像や『毛沢東語録』を掲げて抗議活動を行う事例もある。毛の117回目の誕生日に当たる2010年12月26日には、北京で陳情者らが「毛沢東万歳」と叫びながらデモを行った[23]

毛沢東の言葉・思想
日中戦争時代の毛沢東の言葉

戦争という巨大な力の最深の根元は、人民の中に存在する。日帝がわれわれを迫害し得る大きな原因は、中国人民の側が無秩序・無統制であったからだ。この弱点を解消したならば、日帝侵略者は、われら数億の目覚めた人民群の目前にて、一匹の野牛が火陣の中に放られた如く、われらの恫喝により彼らは飛び上がらん如く脅かされるであろう。この野牛は必ず焼き殺さねばならぬ」

天皇制に対する毛沢東の言葉
戦争末期の1945年5月28日、日本共産党の代表だった野坂参三の演説原稿を読み、以下のような書簡を送っている。野坂は「人民大多数が天皇の存続を熱烈に要求するならば、これに対してわれわれは譲歩しなければならぬ。天皇制の問題は、戦後儘速(迅速)に人民投票によって決定される」という投票による天皇制容認の草稿を用意していたが、毛沢東はそれに対して「『儘速』の二文字は削除できると思われます」「私は、日本人民が天皇を不要にすることは、おそらく短期のうちにできるものではないと推測しています」とさらに慎重な態度を取っている。なお、毛沢東が戦後日本の天皇制を批判したことは無い。戦犯問題についても野坂が広範なファシスト分子摘発を訴えたことに毛沢東は反対し、特高警察や思想警察でさえ「一部の積極分子のみ」に限定するのが良い、と寛容な態度を取った[24]
日本社会党訪中団との会見における毛沢東の発言
1964年7月、日本社会党佐々木更三率いる訪中団が毛沢東と会見した際に、過去の日本との戦争について謝罪すると、毛沢東は「何も謝ることはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。これのおかげで中国人民は権力を奪取できた。日本軍なしでは不可能だった」と返した。この発言をした1964年は大躍進政策の失敗後であり、文化大革命の前夜であった。毛沢東は、日本人を「日本軍国主義者」と「日本人民」に分けて考え、後者と統一戦線を組み、第三の革命とされた日本人民革命を起こさせようと考えていたという[25]
「道は自分で切り開くもの」
毛沢東は、「道は自分で切り開くもの」と、過去の歴史の指導者と同じことをしようとは考えてはいなかった。ある時、護衛の者と山登りした際も昇ってきた道を引き返して下りようとはせず、別の道を見つけて下ったという逸話がある。
『実践論』の言葉
「ある事物を理解するためには、それを変革する戦いに参加しなくてはならない」


最終更新 2013年9月5日